民意を問う






20世紀半ばまでの大衆は、世の中の「正義」をリファレンスとして、自分がどう行動するかの基準としていた。だからこそ、「天下の公器」や「オピニオンリーダー」が期待されていたし、その影響力もあった。しかし今では、大衆全体としての方向性はない。一人一人が、自分の楽しいモノ・好きなモノを選ぶだけである。その結果として、バラバラのブラウン運動をする気体分子が、全体として熱力学的特性を持つように、大衆全体としての方向性が生まれてくるだけである。

流れを見極めて、事実を事実として捉え、それを受け入れた上で前提として対応を考える必要がある。大衆の流れには、棹を刺せない。火砕流や土石流から身を守るには、それを防ぐ発想では無理であり、いかにそこから逃げるかという発想をしなくてはならない。21世紀型の大衆の動きもそれと同じで、誰かが意見して動かせるものではない。ミツバチ対スズメバチの対戦のように、一匹一匹は弱くとも、ミツバチの数の前には、スズメバチはあえなく負けてしまうのだ。

「日本の大衆」が何を望んでいるのか。日本が民主国家である以上、自分がそれをどう評価するか、それに賛成か反対かという立場はさておき、多数が支持する内容については、それがどういうものでも「民意」として受け入れざるを得ない。それが自分の思うところと違うからといって「べき論・理想論」をかざすのは、精神論と神風が吹くという希望的観測だけで自滅した、旧日本軍と同じ独善的な構造である。

大衆は決して、「わかっていない」ワケではない。「わかっていて」現実の選択をしている。この事実を、重く捉える必要がある。たとえば、現在30歳前後の男性には、なにごとにも「意欲の低い」人たちが、他の世代と比べて、優位に多く存在する。この層の特徴は、意図的に「オリて」しまっているところにある。いわば、自分で「意欲の低い」生きかたを選択しているのだ。これは、倫理的な問題以前に、社会的な事実なのだ。

団塊世代以上の、世の中にリファレンスとしての「正義」が存在するという考えをとる人々にとっては、意欲の低い層の存在は問題と映るかもしれない。しかし、当人にいわせれば、そんなのは織り込み済みである。意欲が低くて、どこがいけないのか。自分たちは、ガツガツと高意欲でガンバリまくるよりも、なにごともほどほどにして「まったり」と生きたほうが、よほど幸せだということになる。

マーケティングにおいては、この20年ほどで、プロダクト・アウトから、マーケット・インへ、発想の転換が行われた。いいモノを安く提供すれば、お客さんはついてくるという考えかたでは、モノは売れない。そういう商品には、お客さんは見向きもしない。お客さんのニーズに合わせてモノを造ってはじめて、市場に受け入れられる。実はこの変化も、大衆の「質的変化」がもたらしたものだ。

秀才は、根っこが大衆と同じで、偏差値だけがいい存在である。勉強ができて、試験の点がいいかもしれないが、実はマインドは大衆と変わらない。その分、自分が大衆をリードできると思っている。しかし、これは秀才の思い上がりだ。世の中を見る目や、判断する力は、偏差値とは関係がない。これらについては、秀才の能力は、大衆と同様のレベルでしかない。いわば、「一消費者」以上の存在たりえないのだ。

大衆自身は、自分自身の判断・選択に自信を持っている。たとえそれが、他者と横並びの内容であっても、その内容を「他者から押し付けられたのではなく、自分で選んだ」というところに、納得性を感じている。それの集大成としての「マスの選択」がどうなるかは、結果として創発的にしか捉えられない。それを左右する話ではなく、それをいち早く捉え、それを前提にした戦略を立てる力こそ、21世紀の大衆に働きかける唯一の道なのだ。


(08/02/29)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる