疑惑の原点







「疑惑の銃弾」でおなじみの、三浦和義容疑者。日本では、殴打事件での収監・刑期満了による釈放があり、その後、銃撃事件での最高裁による控訴棄却があって、すっかり「過去の人」となった感があった。先日、コンビニでの万引事件などというのもあったが、まったくベタ記事扱いであった。はっきりいって、日本のマスコミにおいては、お笑い方面にでも転向しなくては、これ以上ネタにならないキャラとなってしまっていた。

それが、サイパン空港での身柄拘束から、一転して話題の主役に返り咲いてしまった。ワイドショーも、週刊誌も、そして報道局制作の報道系のニュースでも、三浦和義一色である。あたかも、二十数年前に戻ったかのようなこの賑わい。幸か不幸か、彼の行動といわゆる「ロス疑惑」に関する資料映像のフッテージは、各局とも溢れるほど持っている。かくして、これら不良在庫となりそうだった映像は、一躍宝の山としてよみがえった。

そこで伝えられている内容は、いまサイパンの法廷で審理されている本土への移送の問題を除けば、かつての「ロス疑惑報道」そのものの繰り返しである。週刊文春の記事により、疑惑が報じられて以来、テレビの刑事ドラマの逮捕シーンもビックリという、検察による「超スタンドプレー」の逮捕までという、1984年から1985年にかけてのリアルタイムな流れと、何ら変わることはない。余談になるが、個人的には、意味もなくクルマのボンネットを飛び越して逮捕に向かう検察官のシーンこそ、この一連の騒動の白眉だと思う。

ところが、なぜかこのシーンのリプレイが登場していない。これでは、面白味が半分以下である。それ以上に、このシーンなしでは、この事件の持っている意味を正確に把握するコトができない。放送局側が自粛しているのかもしれないが、本土移送、ロス市警による再逮捕という流れの中で、画面に登場することを期待している。それは、この事件がウケた理由、そして今でもウケる理由の本質が、ここに象徴されているからだ。

今では、マスコミや報道機関に対し、世の中で何が正しいかを伝える「天下の公器」としての機能を期待する人々は少数となった。いわゆる団塊世代以上の、それも男性だけである。多くの日本人にとって、マスコミとはなにより、面白いもの、楽しいものでなくてはいけない。それは、一連の亀田騒動で、みんな八百長とわかっていても面白いし見たいと思っていたことや、相撲協会がなんといっても、朝青龍が復帰すると、たちまち満員札止め、視聴率も回復したことが、如実に示している。

こういう刹那的でまったりとしたエンターテイメントを、生活者がメディアに対し求める傾向が顕著になったのは、1980年代の後半、プラザ合意以降、バブルに向かう景気の上昇が誰の目にも明らかになったあたりである。まさに「ロス疑惑」こそ、メディアが高度成長期型の「オピニオンリーダー」から、安定成長期型の「まったりとしたエンターテイメント」へと変わってゆく原点を象徴する「事件」なのである。

誰が見ても怪しい、三浦和義容疑者の言動や風体、そして巨額な保険金。庶民的心象としては、どう見ても「真っクロ」である。その一方で、犯罪の証拠や目撃者を残さず、法律的にはクロとは言い切れない状況証拠。この事件自体が、実は、ジャーナリズム視点とエンターテイメント視点で、全く違う見え方をするものであった。だからこそ、当時としては破格に、ワイドショーでもニュースでも取り上げられる事件となり、その二つの視点のズレが、視聴者の好奇心を一段とくすぐったのだ。

二十数年の歳月は、マスメディアから、ジャーナリズム性を消し去り、エンターテイメントこそその本質であることを証明した。その中での、「ロス疑惑」の再登場。オープニングとエンディングに、同じシーンを持ってくる手法は、映画などではよくあるが、これはまさに、「まったりとしたエンターテイメント」の「ジャーナリズム」への勝利宣言以外のなにものでもない。これは、テレビやその分身としてのインターネットが、ウマくこのネタに乗っかっているにもかかわらず、新聞が扱いあぐねている現状が、何よりもよく示している。



(08/03/07)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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