格差の本質






三浦展氏の「下流社会」がベストセラーになって以来、日本社会の「格差」が話題となることが多くなった。しかしその多くは、中年非正規雇用者の増大など、「所得格差」に関する議論に終始している。確かに、所得格差は定量的に捉えやすく、また長年にわたる統計資料も豊富であり、アカデミックに分析しやすい。しかし、所詮はフローに関する数字でしかない。短期的な変化も大きく、必ずしも質的な違いを反映していない。

そもそも格差とは、質の問題である。年間収入の多寡と、生活の質とは必ずしも一致しない。階級社会であるヨーロッパを見ても、上流階級に所属することと、高額の所得を得ることが、必ずしもイコールでないことは理解できる。逆に、貴族階級としての体面や義務を果たすために、必要以上に支出がかさみ、人知れず苦労している人たちも多い。そもそも階級社会においては、上のクラスになるほど、そういう悩みが多いモノなのだ。

日本において、「所得」という指標が必要以上に重視されるのは、「40年体制」において官僚たちが作り出した方便である。そもそも、日本社会においては、欧米に比べ所得の差が小さいという特徴がある。すでに江戸時代から、支配階級である武士より、町人のほうが余程金を持っていた。豪商・豪農クラスになると、並の大名でもかなわないくらいの収入があり、大名に金を貸すような関係が一般的だった。

40年体制は、擬似共産主義であり、「無産者による無産者の権力」という特徴があった。だからこそ、かつての鉄のカーテンの向こう側と同様、原則として「平等主義」(もちろん、この平等は「結果の平等」すなわち悪平等なのだが)を標榜する必要があった。このため、目標とする社会のあり方として、(悪)平等の実現が必須であり、それが達成されたことを示す指標が必要となった。ここで持ち出されたのが、所得である。

そもそも差が少ない上に、高度成長期のインフレ傾向の中で賃上げが繰り返され、一段と所得差は減少した。基本が年功給であったため、年令が同じであれば、極めて所得差は少なく、この指標を取る限り、「平等社会」が実現したことになる。これが、「一億総中流」のまやかしである。所得の重視は、無責任な官僚たちが、自分たちの利権を守り拡大することしかしていないことを隠蔽し、あたかも理想社会を作り上げたように見せかけるためのツールだったのだ。

所得で生活レベルが語れないことは、所得の大きさと可処分所得の大きさが必ずしも比例しないことからもわかる。親の代から東京に住んでいて、都心部に家がある人と、田舎から出てきて、ニュータウンに家を買い、ローンが残っている人とを比べてみよう。この二人が、同じ会社の同じ役職についていたとしても、生活のレベルは全く違うことは、実際の社会生活を振り返ってみればすぐわかる。定量的な指標でも、とり方によっては違うのだ。

それだけではない。この二人では、人生の充実度についても大きな違いがあるであろうことは、容易に察せられる。都心部に家があった人は、自分にかけられる時間的余裕と金銭的余裕を生かして、若い頃から「自分らしい趣味・生きかた」をはぐくむことができる。その一方、ニュータウンに住んでいる人では、いかにそういう欲求があったとしても、実際にそれを実現することが難しい場合が多い。

こうなると、老後も大きく異なる。「自分らしい趣味・生きかた」を持っている人なら、それなりに楽しく豊かなシルバーライフを送ることができる可能性も高い。しかし、ローンを払うこと自体が人生の目的化してしまった人では、定年後何もすることがなく、熟年離婚され、なけなしのマイホームすら取られてしまうのがオチである。これでは、まったく何のための人生かわからない。実は、格差の問題は、ここにこそ本質がある。

いわゆる団塊Jr.層の男性においては、独身・親と同居の、いわゆる「パラサイト・シングル」の存在が問題となっている。しかし、多くの場合その父親もまた、今述べたような、「人生の目的を持っていない」層なのだ。この親にして、この子あり。まさに、人間としての格差は、家庭の中で再生産される。そして、それはすでに三世代目に突入している。こういう質的格差に目をつぶり、臭いものに蓋をしてしまってきたものこそ、「40年体制」の本質なのだ。


(08/03/14)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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