受け身の選択






今、買い物等に関する調査で、「自分の意思で買うものを選んでいるか」という質問をすると、およそ2/3程度が「はい」と答えるだろう。買い物に限らず、何らかの選択を伴う行動であれば、「自分で選ぶ」という回答は、同じような比率で出現する。では、この2/3の回答者は、自分の中に自立した基準を持っている能動的な生活者かというと、これが決してそうではないところに、バブル以降の生活者の特徴がある。

そこに選択肢が示される限りは、その中から、自分が一番好きだったり、一番楽しそうに思えるものを選ぶ。しかし、それはあくまでも提示された選択肢の中からの選択でしかない。選択肢が出される前から、自分が「欲しいモノ」のイメージを明確に持っている人はわずかである。多くの人は、誰かが提示した選択肢があってはじめて、自分が欲しいモノをイメージするにすぎない。

ここで各人が、自分の気持ちに従って選択していることは間違いない。その範囲においては、本人の意思が関わっている。しかし、そもそも選択行動自体が行われるきっかけは、選んだ当人の側にはなく、選択肢を提示する側のセレクトとコンピレーションがあってはじめて誘起される。ここまで含めて行動の因果関係を捉えるなら、あくまでも能動的に行動を起こす主体は、選択肢を提示する側にあり、選択する側は、それに受動的に従属していることになる。

このように能動的か受動的かという基準が、旧来のそれと大きく異なってきているのだ。選択する側だけ見ていたのでは、能動か受動か判別が難しい。これは、現代の生活者の意識や行動を把握する上で、大きな問題となる。この現象は、社会の情報化が進み、「情報余り」の状態となったことに起因する。必要にして充分な情報なら、わざわざ労力やコストをかけて収集しなくても、そのアタりにいくらでも転がっている。情報社会の本質は、この「情報のコモディティー化」にあった。

かつての産業社会までの時代のように、情報を得るにはそれなりの「努力」が必要な時代においては、情報を取得すること自体に、すでにあるレベルの能動性が含まれていた。したがって、自分で情報を得て、自分の意思で判断する行為は、能動的な行動と捉えることができた。しかし、いまや情報環境は回転寿司のようなものである。次から次へと、いながらにしていろいろな情報がやってくる。その中で、興味のあるものだけを選んでいれば、それで済んでしまう。

それだけではない。1980年代以来の「多品種少量生産」の定着で、どんなものでも、自ら「こういうのが欲しい」と思わなくても、自分が気に入る商品に容易に出会えるようになった。こうなると、もはや商品選びに関しては、知識すら必要とされない。目前に並んだ商品の選択に求められるのは、好きか嫌いか、楽しいか楽しくないかという感情論だけである。そして、そういう感情は人間である以上、生まれてすぐの赤ん坊でも、認知症になった老人でも持っている。

かくして、情報社会においては、選択という行為は、極めて受動的な行為と認識される。もっといえば、選択が受動化するのが情報化の本質ということにもなるだろう。この変化を理解することが、現在のM1・F1層以下の若者の意識や行動を捉えるためには重要である。今の30歳前後の層には、選ぶことしかしない「純粋消費者」が極めて多い。そして彼らは、受動的行為である選択を、「自分で選んだ」と思って納得し、そもそもそれ以外の選択の可能性もあることに気付かない。

産業社会的な時代に育った人々や、産業社会的な価値観から抜け出せない人々(なぜか、アカデミズムの内部にいる人には、こういう人が多い)の論じる現代社会論が、往々にして大ハズしに終わってしまうのは、ここに原因がある。完全受動型でも自由に選択ができるのが、情報社会なのだ。この価値観の転換が出来ないと、これから増えるビジネスチャンスはモノに出来ない。まあこの点は、モノに出来ない人が多いからこそ、ビジネスチャンスがあるともいえるのだが。


(08/03/21)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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