「信頼」と必要性






新聞のイメージを調査すると、世代を問わず「信頼できるメディア」という答えが返ってくる。しかし、これは新聞の枕詞が「信頼できる」であることを示しているに過ぎず、回答者当人にとって、「信頼できるメディアとしての新聞」が必要かどうかということと、まったく関連がない。これは、特に若年層に顕著だが、新聞を全く読まない層でも、ヘビーユーザーでも、「信頼できる」に関しては、同じぐらいの比率で「はい」と答えているコトからもわかる。

今50代半ば以上の、団塊世代に代表されるような昭和20年代以前に生まれた層では、社会的に正しいか・良いことかということが、自らの行動の判断基準となっている。彼らにおいては、自らの行動を決めるには、社会的な基準が必要となる。そして、そのリファレンスとしての機能を、天下の公器としてのメディアに求めることになる。その意味で、彼らは新聞を実際に「信頼」し、意識や行動の基準としている。彼らにとっては、新聞は必要なモノなのだ。

しかし、昭和30年代以降に生まれた層では、自分が好きか・楽しいかだけが、自らの行動の判断基準となっている。こういう人たちにとっては、もはや「社会的な基準」は必要とはされない。新聞がある意味で「良識を持った正論」を主張するものであることは理解していても、それは自分にとっては必要のないモノ、ということになる。天下の公器と呼ばれること、それを必要とする人たちが世の中にはいること、その事実はわかっていても、自分にとっては「そんなの関係ねぇ」である。

若者の活字離れ、といわれたことがある。だが、インターネットのWebサイト、特に携帯のサイトは、文字が中心となって構成されている。携帯文学など、最近になって花盛りである。その一方で、若者のマンガ離れが言われはじめている。そう考えてゆくと、決して「活字」が忌避されているワケではないコトがわかる。同様に、新聞離れというのもある。確かに新聞は読まれないが、新聞の一部でもある折込広告は、若い層に対してもきっちりと広告効果を持っている。そういう意味では、新聞というビークルが忌避されているワケではないコトもわかる。

そういう意味では、問題は「ジャーナリズム離れ」なのだ。天下の公器として正論を示す機能が、社会的に必要とされなくなっている。にもかかわらず、「そういう機能が社会的に必要だという」ことしか自己アイデンティティーを持ち得ないのが、今の日本の新聞社である。状況が変化してしまったにもかかわらず、何十年か前の自分の立ち位置が未だに意味を持つと思い込み、そこに安住しきっている。まさに、井の中の蛙である。

困ったことには、50代半ば以上の男性に限っては、今でも新聞にそういう機能を求めている。そして、新聞社の幹部も、基本的にこの層に属している。従って、読者がいないわけではない。もちろん、若年層でも「政治オタク」的な人はいるので、そういう層も「天下の公器」を支持するだろう。だが、こういう読者を全部集めたところで、マスにはなりえない。クォリティーペーパーは生き残れても、ジャーナリズムにコダわる限り、マスメディアとしての新聞は生き残れないのだ。

これに対し、ジャーナリズムの必要性を主張する人たちがいる。だが、それは今の大衆の判断力を低く見積もりすぎている。大衆は、自分で何かを創りだすコトはできない。しかし、そこにあるものの中から、自分の好きなもの、楽しいものを選び出す力に関しては、極めて高いものがある。ここが、かつての産業社会の大衆と、情報社会の大衆の違うところだ。行動判断のリタラシーが高く鍛えられている、ということもできる。だからこそ、ジャーナリストが何か言っても、自分と違えば見向きもしない。

かつての亀田兄弟ブームのときも、大衆は「八百長でも、面白いから見たい」という基準から、兄弟を支持した。相撲協会がどう正論を吐こうが、朝青龍が復活し、「強いヒール」として活躍すればするほど、相撲人気が復活する。賞味期限の偽装以降、白い恋人も赤福も、以前の人気に輪をかけて飛ぶように売れている。これもみんな、「面白い」からなのだ。赤福をおみやげに買ってくれば、ウケて話題が盛り上がるのは間違いない。だからこそ、買うのである。

人間というのは、極めて環境適応力が高い生き物である。そして、リスク対応力も極めて高い。新しい環境で、新しいリスクがあっても、最初こそトラブルもあるが、すぐにその状況とウマく折り合いをつけることができるようになる。近代社会のはじめこそ、「ジャーナリズム」は必要だったかもしれない。しかし、情報化が進んだ今となっては、マスレベルでは無用の長物である。少なくとも、日本の大衆は、ジャーナリズムを必要とはしていない。この事実を受け入れられるかどうかが、今後新聞業界が生き残れるかどうかのカギとなるだろう。


(08/03/28)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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