政治の軸






福田首相就任以来、政界は混迷を続けている。サブプライムローン問題に始まる、アメリカの金融危機など、世界情勢の影響もあるが、それ以上に、日本の政治構造が制度疲労を起こしてしまったことが大きい。前世紀末で、すでに「55年体制」的な政治スキームは破綻していたのだが、それに変わる新たな枠組みを構築できないがゆえに、半分壊れてしまった旧体制を、ダマしダマし使っていたのが実情である。

いわば、買い換えようにも何を買えばいいのかわからないので、ポンコツになったクルマをなんとか走らせているような状態である。実は、そういうクルマを維持するためには、余計な手間とコストがかかるし、省エネやエコという面でも問題が多い。結果、走らせれば走らせるほど、新たなトラブルが発生する。借金が借金を生む、多重債務者のような状態である。少なくとも、安部内閣以降の状況は、こういう「雨漏り塞ぎ」で手一杯の状況といえよう。

この原因は、国民が政治に求める課題と、政界の側が提示できる政策とが、乖離してしまったことに求められる。その時代に育った政治家がまだまだ多いこともあり、政党が提示する旗印は、まだまだ政治的、イデオロギー的な要素を脱することが出来ない。しかし、こういう主義主張が政策論争になったのは、20世紀の産業社会、大衆社会が勃興し、それまでの貴族やブルジョワジーという「士族階級」との抗争があった時代のことである。

今や世の中は情報社会となり、人々の価値判断の基準は、「正しい・正しくない、良い・悪い」から、「楽しい・楽しくない、好き・嫌い」へと変化した。正しいもの、良いものが社会的リファレンスだった時代なら、政治的、イデオロギー的な対立も意味があっただろう。だが、そういう選択は過去のものとなった。大衆の意思とは、一人一人が勝手に楽しいもの、好きなものを選び取った結果でしかない。それなのに、古い政治のスキームでは、この「結果」を反映することができないのだ。

まさに、今の大衆が「新聞離れ」ではなく「ジャーナリズム離れ」を起こしているのと同じコンテクストで、「政治離れ」ではなく「イデオロギー離れ」を起こしているのだ。だからこそ、政策論争には全く反応しない人たちも、選挙が「おもしろいイベント」になってしまったとたん、我も我もと参加するではないか。このため、何を「楽しい」と思い、何が「好き」なのか、という軸で、政界が再編され、それぞれの信じる「楽しいこと」「好きなこと」を、政策として競いあう必要がある。

政治において、この「楽しい」「好き」という視点から対立をもたらすモノ、それは紛れもなく「利権バラ撒きの大きい政府」か「競争原理の小さい政府」か、という軸である。「甘え・無責任」で、結果の平等をもとめ、寄らば大樹の陰・親方日の丸こそ「楽しい」「好き」という人。「自立・自己責任」で、機会の平等をもとめ、出る杭を打たず勝者総取りを可能とすることこそ「楽しい」「好き」という人。全ての問題は、この軸を基本に考えなくてはならない。

現状の政党においては、自民党においても、民主党においても、この両者が混在している。オピニオンという意味では、どちらにおいても「自立・自己責任」のほうが強いが、数でいえば、「甘え・無責任」のほうが圧倒的に多い。結果、何をするにも方向性が決まらず、曖昧な結論にしかならない。旧体制を脱却できないのも、けっきょくはこの曖昧さゆえである。そういう意味では、その他の野党が、すべて「甘え・無責任」一色というのはわかりやすいのだが。

このままでは、国際社会に対して責任ある政治を行うことが不可能になってしまう。もともと、無責任な人たちに引っ張られた結果なので、それも自業自得ではある。その意味でも、政界再編は不可欠である。この政界再編のポイントは、この対立軸が、今までのイデオロギー的な「表面的方向性」による色分けではなく、本質的な価値判断の基準に基づくものであるところにある。

ハト派・タカ派、親米・反米といったイデオロギー的軸では、原因が違っても、結果が同じ人たちが呉越同舟することになる。空想的理想主義に基づくなハト派と、経済成長至上主義に基づくハト派では、今は意見一致していても、バックグラウンドの状況が変化して場合に、同じ政策を支持できる保証はない。この点、新しい軸はわかりやすい。利権を拡大し、バラ撒きを進める上で、アメリカと組んだほうがいいのか、ロシアと組んだほうがいいのか、中国と組んだほうがいいのか。極めて明快である。

手を打たなくてはならない課題は、山積している。後倒しにすればするほど、事態は悪化する。そして、その元凶は、国民の意識に応えることができない政治スキームにある。かくなる上は、一刻を争って政界再編を行わなくてはならない。そしてその軸は、国民の気分と政治の接点といえる、「甘え・無責任」か「自立・自己責任」かである。もし、このガラポンをやるための手段となるならば、「大連立」も意味があるだろう。手段は問わない。やるのみである。


(08/04/03)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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