資本の掟






産業革命が起き、近代社会がスタートして以来、経済活動の基本は、個々の企業が事業の資金を活用して拡大することで、経済規模全体が右肩上がりで拡大する経済成長を成し遂げることにあった。このように右肩上がりを前提としているがゆえに、個々の経営においては、事業開始時に必要な資金は、必ずしも自前で確保する必要はなく、当初は外部から調達しても、成長により帳尻を合わすことが可能となった。

このような状態においては、新しい事業を始めようという起業家や、新しいビジネスの事業プランは次々と登場してくることになる。その一方で、投資できる資金を持っている人は限られる。初期においては、貴族や政商、大地主といった、中世からの大富豪がパトロンとなったわけだが、その資金力にもおのずと限界がある。このため、より小口のお金を、より多くの人から集めることで、さらに多くの資金を調達することをめざした。

これが、株式会社のシステムである。これにより、調達可能な資金は飛躍的に拡大し、本格的な産業社会への移行を可能にすると共に、社会構造自体に対しても、大衆社会の到来を促す変化をもたらすこととなった。だが、株式会社のシステムをとったとしても、調達できる資金には限度がある。いかに小口の資金を集めたとしても、国民の資産の総和以上の資金を調達することは不可能である。経済の成長と共に、この「資金のキャップ」はより明確なものとなった。

かくして19世紀の半ば以降、近代化した経済圏においては、必要とされる資金に対し、供給可能な資金は常に不足することとなった。これを前提に、いろいろな制度やシステムが円滑に機能するために創られたものが、我々が今基準としている資本主義のルール、自由経済のルールである。いわば資本主義の掟は、資金が恒常的に不足し、資金を持っている人が「買い手市場」になっていることを前提にしているのだ。

たとえば、株主の権利が極めて高く評価されているのも、この例である。投資家は、あまたの投資先の中から、選びに選んで自社に投資してくれたのだ。投資家は、極めてありがたく大切なお客さまということになる。従って、いろいろな権利を優先的に与える必要が生まれる。また、買い手市場であるがゆえに、資金市場で資金調達を常に争っている企業の間では、よりよい条件を出資者に与えることで、資金獲得で有利なポジションを得ようとすることになる。

この繰り返しの中から生まれてきたのが、今の株主の権利であり、株式市場における投資家のポジショニングである。経営に対する発言権も、利益に対する分配権も、株主が圧倒的に優位に立っている理由はここにある。経営者も従業員も、投資家としての株主の資金がなければ、事業を遂行できないし、製品やサービスも提供できない。製品やサービスが供給されないのでは、そもそも消費者がそれを購入することもできない。

企業をめぐる3つのステークホールダーの中でも、キャスティングボートを握っているのが、投資家としての株主であった。そしてそれは、常に必要な資金より調達可能な資金のほうが少ない、という、買い手市場の投資マーケットの構造を前提にしていた。しかし、21世紀に入り、産業社会から情報社会への社会構造の変化が起こった。経済活動は、右肩上がりという量の拡大による利益の拡大ではなく、構造変化による質の拡大に基づく利益の拡大を目指すようになった。

これは、必ずしも常に拡大する資金需要をもたらすものではない。そしてその結果起こったのが、この10年来顕著になった世界的な資金余りである。このように、産業社会を前提としていた「資本の掟」は、昨今のような資金余りの状況は前提にしていない。1990年代、日本のバブル崩壊以降、国際通貨危機、金融危機をはじめ、グローバル金融マーケットを揺るがす事件は、ほとんど、資金余りになったマーケットに対応した資本の掟が確立していないことにより引き起こされたものである。

そういう意味では、今問題になっているサブプライムローン問題に発端を持つ経済危機も、全く同様である。資金がコモディティー化した以上、投資家を必要以上に優遇する必要はない。そもそも、資金調達において、株式市場を通して広く浅く資金をかき集める必要があるのかから、もう一度考える必要がある。情報社会の中に、孤島のように残った産業社会。いまの金融マーケットは、そう呼ぶのがふさわしい状態にあるのだ。


(08/04/10)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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