世の道理






人間は平等なものではない。ある一つの能力についてみるならば、かならず強い・弱いのランキングがある。そうである以上、強いものと弱いものの関係をどう保つかは、極めて重要な問題である。単に強いものが弱いものをイジメたのでは、関係性は保てない。一定の関係を、安定的・継続的に保てるような秩序をもたらすルールがあってはじめて、社会としてのまとまりが生まれる。今の世の中では、このルールが軽んじられる傾向が強い。

そのルールとは、弱いモノは強いものに媚び諂うかわりに、強いモノは従順な態度を示してきた弱いモノを人一倍大事にし、イジメないとともに、逆に、弱いくせに強いモノに対し歯向かってくるものに対しては、徹底的に痛めつけ、完膚なきまでに叩き潰すというものである。上に立つものが取るべき態度と、下につくものが取るべき態度。これが、世の中の掟である。

上に立つものは思し召しを与え、下につくものは権威にへつらう。これは、人間社会が平和で秩序だったものになるための基本である。今の日本人は、「民主主義」思想が徹底してしまい、「何でもかんでも平等」という意識が強いので、この関係性を造るのが非常に苦手。20世紀後半の日本は、階級性がない社会が達成された上で、大衆がそれなりに豊かで喰うに困らない状態にあることもあって、「ヒトには上下がある」ということ自体が認識されていない。

こういう環境に慣らされた人間が、ひとたび権威のあるポジションにつくと、その権力を乱用し、自分の私利私欲のためだけに使い、それによって他人が迷惑をこうむるコトも意に介さなくなる。偏差値が高いだけで、ヒトの上にたってリーダーシップをとることの意味さえ知らない人間ばかりの高級官僚が、国民の税金を湯水のごとくばら撒いて利権をつくることと、何も仕事をせずとも高い給料をもらえる天下り先を確保することに汲々としているのは、その典型である。

儒教精神の本質は、階級社会を前提とした上で、上に立つものが、権力や権威に驕ることなく、天に変わって、人々に公平で公共的な態度で接することを求めるところにある。名誉は多いが、極めて責任も重く、自重しなくては勤まらない。そして、下々のものは、そのようなリーダーシップに付き従っている限り、大いに現実的なご利益にありつけることができる。上のものは名をとるが実は取らない。下のものは名はないが実が多い。このバランスが何よりミソである。

かつて、中華帝国を中心とした儒教圏では、朝貢貿易というものが行われていた。夷狄の国々は、中国の皇帝に対し、従順につき従う意を表明する。すると、あまたの金銀財宝が皇帝より下賜される。頭を下げさえすれば、現実的なご利益があたえられる。これがまさに、儒教精神的な秩序を示したものである。名をとることがなにより名誉なのであり、実をもとめてはいけない。実は、下々のものにこそ与えられるべきモノなのだ。

江戸時代には、「武士は喰わねど高楊枝」といわれたように、日本でも、まがりなりにも儒教精神が機能していた。責任と名誉ばかり重いが、実入りの少ない武士に対し、その権威さえ尊重するならば、豪商に代表されるように、庶民は金儲け、蓄財に励むことができた。リーダーシップとは、集団の中でしか現れない。一人でいるときには、リーダーシップもヘチマもない。そしてリーダーシップが発揮されるためには、周りのメンバーがへりくだることが何より重要なのだ。

こう考えてゆくと、いかにチベットに分がないかがわかってくる。相手は朝貢貿易の本場、中国である。そして、中国のほうがチベットより圧倒的に強力である。従順に従えば必ずご利益があるはずだが、反発すれば手痛いしっぺ返しにあうことは明白である。ルールをわきまえていないのは、チベットのほうである。もっとも、ハナから儒教的思想を受け入れないというのであれば、それはそれなりの理はあるが、それが多大なリスクを伴うものであることもまたわきまえなくてはならないのだが。


(08/04/18)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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