病としての「KY」







それが趣旨通り運用できているかはさておき、2005年に発達障害者支援法が施行されて以来、日本における障害を持つ人々に対する支援のあり方は、大きく変化した。それまでのやり方が、社会生活を送るのが困難な、重度の障害を持つ人々だけを念頭に置いた支援だったのに対して、軽度で多様な障害を持つ人々が、より高い適応性を持って社会生活を送れるような支援へと、対象が拡大したのだ。

たとえば、他の人間との関係性を構築できない「広汎性発達障害」においては、従来は自閉症と呼ばれていた、知的障害を伴うものだけが発達障害と認定され、支援対象とされたのに対し、現在ではアスペルガー症候群と呼ばれる、標準的、あるいは標準以上の知的能力を持っていても、社会的状況が把握できなかったり、人間関係が構築できないものも支援対象とされるようになった。

これまで軽度で多様な障害を持つ人々は、健常者と同様に扱われ、どちらかというと、本人の努力が足りなかったり、ワガママだったりするがゆえに、適応できていないものと思われてきた。しかし、これは逆効果を生んだ。健常者にとっては、障害を持つ人々と接し一緒に生活することで、思いやる気持ち、いたわる気持ちを養うというメリットがあることは確かだ。しかし、障害を持つ人にとっても同じとは言い難い。

他人ができることが自分はできない。それが直接的にプレッシャーになることもあるし、自分ができないために全体の足を引っ張っていることが、間接的にプレッシャーになることもある。いずれにしろ、横並びを強いられることが、ストレスの原因となる。そして、これらの症状が悪化する要因のひとつが、ストレスなのだ。これでは、周りはイザ知らす、当人にとっては、平等な扱いが逆効果を生むことになる。

世の中、単純で勢いのあった高度成長期においては、トロいヤツとか、勘違いしたウザいヤツとか多少混じっていたとしても、右肩上がりの追い風の中、土石流のように激しい全体の流れにのってしまえば、充分に紛れてしまっていた。というより、誰もが流れに乗っているだけで、何も考える必要がなかったので、考えていないヒトであろうと、考えられないヒトであろうと、特に浮いてしまう環境にはなかった。

しかしバブル崩壊以降、日本社会が安定的かつ複雑なモノとなると、そうは問屋が卸さない。常に突きつけられる選択肢に対し、自分で考え、自分で判断して道を選ばなくてはならなくなった。この状況下では、トロいヤツ、ウザいヤツは、いるだけで足手まといである。混雑した自動販売機の前で、使いかたがわからず右往左往しているヒトがいると、ますます混雑に拍車をかけるようなものである。

こうなると、イジメが発生することになる。当人には、能力が足りないだけで、なんの罪もない。しかし、周りからすると、結果的に迷惑をこうむることになる。これが、プレッシャーを生み、ストレスとなり、よりシビアな病状をもたらすことになる。昨今、企業を中心に、メンタルヘルスが社会的問題となっている裏には、こういう社会構造の変化を見てとることができる。そして、それはもはや放置したままでは見過ごせない問題となっている。

かくして、現代社会においては、各人の状況に応じた適正な支援を行うことが、最も望ましい対応ということができる。さて、ここで問題になるのが、健常者と障害があるヒトの境界をどこに置くかという問題である。重度な障害だけを対象とする限りにおいては、いわば「全部×」なヒトだけを対象にすればいいので、余り問題にはならない。しかし、軽度な障害はアナログ的に健常者と連続している。

「全てが全て健常なヒト」というのも存在しない以上、その境界の設定は極めて困難である。それを適正に行いうる方法は、定量的指標ではなく、周囲との関係において、社会生活上の問題があるかないか、という点に求めざるを得ない。周囲に問題を引き起こしていれば要支援であり、それがなければ自立して生活できる、という判断である。さて、世の中には通常の一見社会生活を送っているように見えても、実は、周囲に問題を引き起こしている人たちがいる。

それは、当人は普通だと思っていても、回りが「キモい」「ウザい」と感じてしまうような行動、反応をする人たちである。そう、いわゆる「KY」である。空気が読めないとは、社会的状況の汲み取りができず、集団行動に困難があるコトに他ならない。従って「KY」とは、最も軽症の広汎性発達障害ということになる。そう、「KY」は障害であり、病気なのだ。無理に同質化を求めても、結果的にはイジメになってしまう。彼らには、社会的支援こそが必要なのだ。

そのためには、彼らがストレスを感じなくても済む環境を提供すべきである。最近は学校教育でも、障害を持つ生徒を無理に通常学級に入れ、ストレスに晒すよりも、専門的な知識を持った指導者がいることを前提に、特別支援学級の元で育成したほうが好結果を生むと認識されるようになった。これも同じことである。「KY」なヒトに、健常者と同じ意識や行動を求めることこそイジメである。彼らには、健常者と同じ行動を求められずに済む、特別支援環境こそが必要なのだ。



(08/04/25)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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