文化を継ぐもの







この十数年、ことホビー関係の業界では、「最近の子供はコダワリがなくなったので商売がしにくい」という神話がまことしやかに語られている。しかし、調べてみればわかるが、コダワリがなくなったというのは真っ赤なウソである。コダワリはあるのだが、昔のマニアのコダワリとは、対象のカタチが変わったのだ。それで、昔気質のマニアから見れば、コダワリが感じられないのに過ぎない。

確かに昔と比べれば、モノや情報を集めたり作ったりするところには、コダわらなくなった。それは、社会の高度化が進むことで、情報化の進展や、社会資本の蓄積が起こり、かつては得られなかったようなインフラや、社会の基本的なリソースが容易に利用できるようになったからである。つまり、集めるのに熱心でなくなったのではなく、集めるのに手間がかからなくなったので、そこに無用なエネルギーを注がなくなった、ということに過ぎない。

たとえばゲームマニアであれば、初代ファミコン誕生以来の、何万種類といったゲームソフトだって、集めようと思えば集めることができる。マシンそのものも、限定仕様といったバージョン違いはさておき、ほぼ全ての機種を容易に手に入れることができる。問題は集めたり手に入れたりするという物質的なことより、それをどう楽しむかという、中身の問題になっているのだ。

アニメやコミックでも、権利関係が複雑でこじれている一部の作品を除けば、これらのカルチャーが日本で生まれて以来の、50年になんなんとするコンテンツの蓄積を、容易に楽しむことができる。そしてこういう環境を生かして、好きな子供は、ちゃんと好きなものをきっちり見潰しているのだ。敷居が低くなった分、本当に好きなヤツしか極めなくなっているともいえる。また、多くの趣味分野で「作る」必要がなくなったことも、影響が大きい。

ぼくは、音楽をプレイするが、それは音楽をプレイすることが好きだからではない。楽器を奏いたり、唄をウタったりするが、それはパフォーマンスが楽しいのではなく、自分の作りたい音楽を現実の音にするには、自分でプレイしなくてはならないからするまでである。自分の頭の中でなっている音楽を、そっくりそのまま現実の音として演奏してくれるヒトがいるなら、あえて自分では奏かない。

まあ、何億円も好きになる金があれば、純粋なプロデューサーに徹して、世界中から、自分のイメージに合ったプレイをしてくれるミュージシャンを集めて音楽を作れるのだろう。確かに、ぼくがビートルズに関してあこがれるのは、4人のメンバーより、ジョージ・マーティンだったりするのだが。そうは問屋が卸さないからこそ、自分でプレイせざるを得ない。だから、ライブも嫌いではないが、スタジオでベストテイクをプレイバックする瞬間のほうが至福の時となる。

同様にこれまたぼくの趣味である模型についても、自分の頭の中でイメージしているカタチを、そっくりそのまま製作してくれるひとがいるなら、それを買ってくることで充分満足できる。自分の頭の中のイメージにあったものが、製品として出てくる可能性が低い以上、自分で作らなくてはならないまでだ。ぼくにはこつこつ積み上げるような職人的才能はないので、作るプロセスが楽しいワケではない。出来上がったものが欲しいからこそ、作らなくてはならないのだ。

このように、作品へのこだわりと、プロセスへのこだわりは全く別物である。そう考えると、この両者が分かちがたく混同されていた、かつてのマニアやひらがな「おたく」的な世界のほうが特殊ということになる、それは、その趣味世界が創成期で、何から何まで自分で作らなくてはならなかった時代を、まだ引きずっていたからこそ引き起こされたものである。歴史を重ね、それぞれの世界での蓄積が深まれば深まるほど、自分で作らなくてはならないモノは減ってくる。

さて、環境の変化はこれだけにとどまらない。実は、今のティーンズ以下の子供たちを考える上でそれ以上に違うのは、背負って生まれた文化の違いである。今のティーンズ以下といえば、その親は主としていわゆる「新人類世代」である。団塊世代が基本的に無趣味で会社人間だったのに対し、新人類世代は「元祖おたく世代」として、ホビーだけでなく、スポーツとか学問的なものとかまで含めれば、それぞれ何かコダワリのある分野を持っていた世代である。

これは、団塊世代においては、一部の裕福な都会出身の「お坊ちゃま・お嬢さま」だけが趣味人だったのと大きな違いである。そして、新人類Jr.世代は、自分が親になった今でも、その趣味へのコダワリをあるレベル以上持ち続けているのだ。中には、全く熱意が衰えない人もいる。1970年代からコミケに出展しづつけている元祖コミケ世代には、今でも子連れでブースを出しているような同人作家がたくさんいることなど、その典型的な例だろう。

かつて日本では、「趣味人」の親に育てられた子供が、これほど大量に生み出されたことはなかった。これが子供世代に及ぼす影響は、無視できないものがある。たとえば親がジャズマニアやクラシックマニアで、何千枚というCD・LPコレクションを持ち、四六時中音楽が鳴っている家で育つ子供がいる。この子供が、どこまでジャズやクラシック好きになるかはわからないが、一ついえるのは、スゴいマニアになっても、わざわざ自分が新たにアルバムをコレクションするまでもない環境にある、ということだ。

その反面、そういう環境で育った子供がジャズやクラシックにのめりこんでマニアになると、このようなバックグラウンドを持たない子供は到底太刀打ちできないハンディキャップを持つ。コレクションだけではない。親が蓄積した情報やノウハウもまた、圧倒的に有利に我が物にできる。かくして趣味の世界も、蓄積した有形無形のストックを代々受け継ぐ、一子相伝の世界となってきた。それとともに、新規参入のバリアーもますます高くなる。

昨今、純粋消費者として、量産品のグッズを集めや、業者の提供するサービスに「萌え」るだけで満足するカタカナ「オタク」が斯界のマーケットの牽引者となっている。これも裏返せば、自分で世界と価値観を作り出せるひらがな「おたく」の世界が二代目の時代となり、一子相伝の世界に入ったことと密接な関連があるだろう。新人類世代のガンダムおたくの父親なら、純正のセル原画を持っているのも珍しくないことを知るべきだ。

そう、日本でも趣味が文化になったのだ。ストックとして、親から子へ受け継がれてこそ文化である。一般人の子供が歌舞伎役者になることは不可能ではないが、一流の役者になることは極めて難しい。それは、文化としての歌舞伎には、マニュアル化できず、梨園の生活の中でしか会得できないものがあるからだ。これと同じである。親が一流の趣味人でないと、あるレベル以上の趣味人になるのは極めて難しいモノとなった。ヒトは、これを文化と呼ぶ。



(08/05/02)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる