コモディティーとしてのIT






パソコンが登場して30年、インターネットが一般に普及しだして15年、今やITやデジタル技術は、社会の最も基本的なインフラとして、なくてはならない必需品となった。業界では昨今、「水と空気とインターネット」、「水と空気とケータイ」といわれるが、それらをひっくるめて、「水と空気とIT」「水と空気とデジタル技術」と呼ぶべき時代となっている。まさに「情報化時代」である。

これにより、ITやデジタル技術の社会的な位置付けも大きく変化した。これらの技術的黎明期ともよべる80年代後半、バブル期からバブル崩壊に至る頃は、デジタル技術は新奇な技術として珍重され、それらの技術を利用することが付加価値となっていた。CDが登場したての頃は、同じアルバムでもアナログ盤より高価だったりした時代だ。しかし、今やデジタルが当たり前になった。

それだけでなく、デジタル技術を利用したものは、設計が楽な上に生産性も高いため、極めて量産効果が効き、「安く・早い」のが常識となっている。このように、デジタル化には付加価値はない。それは、コモディティー化の極限なのだ。ITやデジタル技術が重要なのは、付加価値があるからではなく、それなくしては社会が立ち行かない「必需品」だからだ。この変化に気付くことが、ITやデジタル技術に関わるマーケティングでは最も重要なポイントである。

たとえば、手紙である。仕事の事務的な連絡や、形式的なあいさつなら、大体e-mailで済ませてしまうのが昨今。携帯のmailだと、もう少し「私情」が入るが、それにしても「相槌」みたいなノリのモノが多い。その一方で、手書きの封書なんかもらった日には、思わず改まって正座して読んでしまう。お詫びとか、お願いとか、なにか特別な意味合いを込めたメッセージという雰囲気がプンプンしている。

まさに、手をかけた「アナログ」だからこそ、そこに書かれた文面を越えて、それだけ強いメッセージを持っている。今の時代、手をかければかけただけ差が出るアナログ的なものこそ、付加価値が高くできるのであり、あるレベルはクリアできるが、それ以上の差を出し得ないデジタルでは付加価値をつけることができない。デジカメでも、一眼レフのような高級機になると、レンズやメカといったアナログ部分の勝負になり、銀塩の高級カメラメーカーが盛り返すことになった。

少なくとも学生時代にパソコンを体験した40代以下の世代においては、この「IT・デジタル=コモディティー」という構図は、実体験として身に染みついている。パソコンがなくては企画書も見積書も書けないし、インターネットがなくては仕事も遊びも予定が立たない。それは「付加価値」ではなく、「必需品」だからこそ重要なことは、年令が下がれば下がるほど深く心に刻まれている。

問題なのは、50代後半以上、いわゆる団塊世代より上の層である。この層は、ITやデジタル技術が登場してきた頃の記憶が鮮烈な分、これらが受け入れられるのは付加価値ゆえという、妙な神話に取り憑かれたまま今に至っている。オマケに、自分達のデジタルリタラシーが低い分、世の中全体として、ITやデジタルがコモディティー化している事実すら気付くことができない。

ここで問題になるのは、今でも日本企業、特にメーカーの多くで、この「神話」に取り憑かれた世代が経営トップに居座っている点である。なかんずく日本の電機メーカーにおいて、この問題は極めて重い。日本メーカーの不振を、技術的問題として捉える向きもあるが、それは間違っている。アジア各国のメーカーも、こぞって日本に開発拠点を設置し、日本の技術者を抱えていることを考えれば、すぐにわかることだ。

不振の原因は、まさにITやデジタル技術に付加価値を持たそうする経営判断の間違いにある。「デジタル=コモディティー」とキチンと捉え、その上で商品戦略や販売戦略を立てれば、それなりに利益を上げることは可能だ。しかし、もともとない付加価値を前面に打ち出しても、最初からコモディティー戦略を取ってくる海外メーカーには勝てない。大型画面の薄型TVなどが良い例だろう。

ブランド戦略でも、高級商品としてのブランド戦略と、コモディティーの中で価格破壊に巻き込まれないためのブランド戦略とはおのずから異なる。スーパー店頭で、大量の販促費を投入して値引きを掛け、目玉商品とならなくては売れないブランドではなく、通常価格でもコンスタントに売れるブランドとなることが、コモディティー戦略としては重要である。これが日本の電機メーカーにできるだろうか。いや、これができたところしか、もはや生き残れないというほうが正解だろう。




(08/05/09)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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