日本の組織とコンプライアンス






金融危機以降、この10年ほどで、グローバルスタンダードに則った経営が必要との認識は、日本でも大いに高まった。特にコンプライアンスの問題は、近年、特に重視されるようになった。にもかかわらず、官民を問わず、日本の組織においては、相変わらず不祥事や捏造事件が絶えない。それは、表面的なマインドアップでは対処しきれないような、もっと組織の根源的なところに、その元凶が潜んでいるからだ。

コンプライアンスで重要なのは、単に遵法精神とかルールを守るとかいうような、子供の交通安全教育のようなコトではない。コンプライアンスの本質は、組織の活動において、それぞれの組織メンバーが、それぞれの役割に見合った「責任を取る」コトに尽きる。常々述べているように、日本の組織というのは、そもそも責任を曖昧にし、個人が無責任でいられるためにある。責任そのものが曖昧な日本の組織は、コンプライアンスがどうのこうのという以前の存在なのだ。

日本においては、コンプライアンスとは、決められたルールを忠実に守り、その枠の中からハミ出さないこと、と解釈しているヒトが多い。これには理由がある。こういうやり方でいる限り、ルールは、自分を守ってくれる盾となり、その陰に隠れていれば責任を問われることはない。日本の組織人の大半を占める「甘え・無責任」なヒトにとっては、そもそもルールや制度そのものが、無責任でいるための既得権となっている。

確かに、ルールにはこういう一面がある。「事実は小説より奇なり」ではないが、ビジネスをはじめとした活動を行っていると、当初想定していないような事象に出くわさざるを得ない。しかし、当初規定されたルールや制度では、あらゆる事態に対する対応は規定し得ない。事前にあらゆるケースに対する対応が想定できるものであれば、コンピュータシステムで対応可能であり、わざわざ人間系で処理する必要がない。

組織にしろ個人にしろ、積極的に社会的活動を行うためには、このような「想定外」の事態にであったとき、どう判断し、どう対処するかという戦略的決断が、常に必要となる。これこそが、人間系の役割なのだ。その役割を果たさず、規定の中に逃れてしまうのは、責任からの逃避以外のなにものでもない。旧国鉄で、労働組合が多用した「遵法闘争」が、体の良いサボタージュでしかなかったことを想起して欲しい。

逆に、法やルールとぶつかるところがあっても、自分が正しいと思う道を貫き、法やルールのほうを変えさせる意気込みこそ、真にコンプライアンスを果たすことにつながる。関係官庁の許認可権に何度潰されそうになっても、それに真っ向から立ち向かい、宅急便サービスの全国展開を実現した、ヤマト運輸の小倉元会長などは、まさにこの責任感を、いわば命懸けで果たした経営者ということができるだろう。

その正反対に、全てのルールや制度、許認可権益をフル稼働し、自らの利権を守り、メンバーが無責任でいられる環境を実現することだけを考えている組織が、官庁である。日本が法治国家である以上、官庁の行動は、法律によって規定される。それを逆手にとって、自分たちの責任が曖昧になるよう、法制度を規定し、その中でヌクヌクと無責任と甘い汁を享受できるようにしている。これが日本の組織の規範となっているのだから、何をかいわんやである。

これもまた、結局はリーダーシップの問題に行き着く。日本には少ない、自らが率先して責任を取るタイプの人材がリーダーとならなくては、この問題は解決しない。その一方で、そういうリーダーシップがある会社なら、日本がどうのこうのという以前に、グローバルに活躍するリーディング・カンパニーとなっている。甘え・無責任な人たちの、甘え・無責任な組織は、官がそうであるように、井の中の蛙のまま、日本と一緒に、温暖化して水面が上昇した海に飲み込まれてしまえばいいのだ。



(08/05/30)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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