組織化の極意






グローバルな展開において、日本の組織が陥るワナに、「グローバルスタンダードに基づく組織マネジメントができない」というものがある。日本国内の「組織」のダイナミズムと、世界各国の「組織」のダイナミズムが、余りに異なるため、日本的な組織運営しかできない日本人では、海外の組織をコントロールできない、という考えかただ。しかし、果たしてこの問題は、そんなに単純なモノなのだろうか。ます、彼の地の組織が本当はいかなるものか、少し考えてみよう。

たとえばアメリカの陸軍では、兵士の訓練カリキュラムやマニュアルを作成する際には、IQが80程度で、なおかつ英語を余り理解しない人間でも、兵隊として充分有用な活躍ができるようにすることを念頭においているという。アメリカでは、移民や教育の機会に恵まれなかった下層の人たちが、真っ当な仕事につこうと思ったときに、軍に入隊し兵士となるというのは極めて重要な選択となっている。

そういう意味では、これは必然の結果ということもできるのだが、アメリカ社会の持つ構造的特徴が、ここに象徴的に現れていると読み取ることもできる。ひとまずは、組織のメンバーに対し、最低限のパフォーマンスしか期待しない。その最低レベルの保証だけを担保しておけば、ひとまず組織は機能する。そして、メンバーがそれ以上の結果を残せば(それは、そこそこ頻繁に起きるワケだが)、それは即、アウトプットの向上、生産性の向上につながることになる。

まるで、かつてのアメリカ車では最も一般的なエンジンだった、OHV・V8エンジンが、一つや二つピストンが抜けてしまっても、実用上は全く問題なく動くのとよく似ている。また、最初の期待値が低ければ、それを前提に全体の機能構成を考えなくてはならず、その中では生産性向上や効率向上に常に努めなくてはならない。だからこそ、日本のように「向上」が精神論にならず、理論的な分析から対策を求めてゆくソリューションを生み出すことができる。

また、そもそもの期待値が低いため、必要以上の帰属意識や忠誠心を求めなくて良い点も見逃せない。極端な話、敵のスパイであっても、戦力化できる。敵のスパイであるコトを見破られないためには、ある程度以上、忠実に職務を遂行する必要がある。この範囲で仕事をさせておく一方、機密情報に触れさせず、破壊工作の対象となるようなクリティカルな作業をさせなければ、問題なく「手数」としては使えてしまうことになる。そして多分、IQ80の人材よりは、よいパフォーマンスを示すだろう。

相手に対し、あるレベル以上の能力や理解力を期待してしまうことは、相手に甘えていることに他ならない。そういう期待なしに、相手を「使いこなす」ことが、使用する側には求められるし、使用する側の責任ともいえる。組織というシステムの構築は、そういう最低限の手ゴマでも、組み合わせることで、あるレベルの結果を残せるようにするところに醍醐味がある。期待とは、その組織を組み立てる側の責任を、手ゴマに押し付けているだけなのだ。

大は小を兼ねるではないが、過剰に期待したところに、期待以下の人間が嵌ってしまったのでは、腹が立つだけなのに対し、何も期待していないところに、期待以上の成果が得られるのは、なんともラッキーな話である。最低レベルの期待に対し、それ以上のレベルの人間がきてくれれば、なんら問題ないだけでなく、どんどん生産性が向上するというメリットさえ生み出す。これが、組織マネジメントの本質である。

日本でも、これに近いチームワークをとっているものとしては、工事現場やイベントの現場などがある。どちらも、熟練者も被熟練者も含め、その日一日限りのメンバーが集まり、毎日顔ぶれが変わったチームとなるが、結果としては、それなりのパフォーマンスを発揮するマネジメントが行われている。やろうと思えば、日本でもできるのだ。それが行えないというのは、ひとえに、リーダーがメンバーに対して甘えているだけなのだ。だからこそ、甘え・無責任な人間を、責任ある地位につけてはいけない。



(08/06/06)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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