挫折感の構図






秀才というのは、突き詰めれば努力次第で何とかなる要素が多い。いろいろな勉強法や、「必ず合格させる塾」が繁盛しているコトからもわかるように、ある種の障害を持っている場合を例外として、勉強をすれば、試験で点数は取れるのだ。それは点数を取るには、考えることより、解法を覚えるほうが効果的だからだ。したがって、あるレベルの記憶力さえあれば、それなりに努力はいるが、「偏差値の高い秀才」を作り出すことは可能だ。

こう考えてゆけば、マジメにコツコツ努力することをいとわない、クラい性格の人間なら、勉強にさえ、並外れた集中力を発揮すれば、意外といい偏差値を取ることが可能なことがわかる。高度成長期までは、「ガリ勉」などと呼ばれていたタイプである。何のとりえもない人間だが、テストの点数だけはいい。だからどうなのだ、というヤボな質問は抜きにして、これもまた一つの特技、一つの個性としてなら、認めることができるだろう。

しかし、人間の器は、努力により大きくなるものではない。点数を取るための努力をすれば、それなりに試験の点数は上がるし、努力次第では秀才と呼ばれることも可能だ。だが、いかに勉強したところで、人間力は低いままであることを忘れてはならない。当然のことながら「地頭の良さ」も、努力による改善が可能なものではない。突き詰めてしまえば、秀才と呼ばれる高偏差値人間の大部分は、こういう努力で何とかなるところだけで点数を稼ぐタイプなのである。

問題は、並みの人間でも、義務教育の間なら、努力だけでもかなりの点数をキープし続けることは可能だが、高校以上のレベルになると、絶対的な記憶力とか、勉強の効率とかがクリティカルなポイントになってくる点である。長距離競技と同じで、あるところまでは、気合と努力で先頭集団についていけても、ある時点から先は、その中での実力差がジワジワと効いてくる。このまま必死に喰らいついていくか、それとも無駄な努力は諦めるか。ここが正念場、思案のしどころということになる。

とはいうものの、当事者は「ゆで蛙」よろしく、自らに降りかかっている状況の変化が、急激なモノではないだけに、自分の状況を正しく判断することが難しい。実はどう見ても勝ち目がなくなっていても、自分の努力が足りないだけで、まだチャンスがあると思い込みがちになるのだ。そして、手遅れになり、もはや抜き差しならない状況になってはじめて、現実を知る。ここまできてしまうと、もはや挫折しか残されていない。

努力で全てが解決すると思い込んでいる「秀才崩れ」が、挫折してしまった状況ほど手に負えないものはない。世の中は全て努力次第と思っているがゆえに、本質的な人間力の差というものには思いも及ばない。そういう人間が挫折してしまうと、こんなに努力したのに、それを認めない世の中が悪い、と逆恨みすることになる。逆恨みなのだから、それで何一つ解決するわけではない。かくして、一層挫折感が強まる悪循環にハマることになる。

中学生から高校生の時期に、この悪循環から抜け出せるかどうかは、親にかかっている。親が、「人生とは、努力でどうにかなるものではない」コトを理解していれば、挫折しそうになっても、ウマく導くことができるだろう。もっとも、そういう親なら、そもそも秀才合戦のような道を選ばせないともいえるのだが。大体において、子供に点数を取らせようとする親は、「努力教」の信者になって、自分の能力を省みず、子供にハッパをカケているのがほとんどである。

かくして、上司の「バカの壁」と同じように、ここでも親の「バカの壁」が立ちはだかる。人間力が低い親は、子供の人間力を的確に評価できない。人間力が高い親ではじめて、子供の人間力を客観的に測定できる。子供の人間力をキチンと把握しなくては、子供に対して、進むべき道を示すことができない。突然変異で、鳶が鷹を生むことがあったとしても、この「親の『バカの壁』」がある限り、その能力は生かされないことになる。

高度成長期の日本では、人間力がなくても「右肩上がり」でゴマかせた。何もしなくてもおこぼれに預かれるという好景気の中で、親世代は楽していい思いをした。それがすっかり身についてしまった分、世の中はそれで済むものという勘違いから未だに抜け出せない。これが、子供の挫折感を強め、社会に対する怨念を増大させる要因となっている。どんなに努力しても、勝てないヤツには勝てない。それは、人間社会の基本原理である。「努力教」は、この人類の基本原理にも悖っている。

現代日本人は、人間には「差」がある、ということをまず知るべきだ。努力すれば叶う、というのはまやかしであり、思い上がりである。絶対に越えられない壁は、ヒトとヒトの間に存在する。その違いを認めない限り、自分の存在もみとめられない。そういう「民主的」な幻想をいつまでも持ち続けるから、挫折するのだ。最初から希望を捨てていれば、挫折することもない。挫折がなければ、社会や世間に対して、いわれのない恨みを持つこともなくなる。

そのカギは、自分の中にある。他人が何とかしてくれると思うのは、自分の心の甘えでしかない。もはや、甘えが通じる世の中ではないことを知るべきである。人間、欲を出せばきりがない。永遠に満たされない、悪循環にハマるだけである。その一方、足るを知れば、幸せが手に入る。正直爺さんと、強欲爺さんではないが、幸せに向かうグッドサイクルに入るのか、破滅に向かうバッドサイクルに入るのか。大事なのは、本人の心の持ちようなのだ。



(08/06/20)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる