北風と太陽






世代を問わず日本人に多いのが、「自分の考えは、相手に理解してもらえるはずだ」という思い込みである。相手が理解できないのを前提にした説明と、相手が基本的に理解してくれるコトを前提とした説明では、中身が180゜異なる。グローバルレベルで考えたとき、日本人が「説得」や「プレゼンテーション」をウマくこなせないというのも、その原因はここにある。

理解してもらえないのを前提に行動しているときに、理解してくれる相手と出会えたなら、それは何も問題はおきない。しかし、理解してくれるコトを前提にしているヒトが、理解してもらえない相手と出会ったときは悲劇である。相手が理解してくれるというのは、相手に対する甘えでしかない。そして相手もまた、「相互に理解してもらえる」と信じているタイプなら、このすれちがいは、間違いなく衝突になる。

もちろん、確かに理解してもらえる場合もソコソコある。しかし、それはなによりラッキーなコトと思わなくてはイケない。アタるのが当たり前と思うから、問題がおきるのだ。これは、くじ引きと同じ。いつでも、そういう幸運にアタるワケではない。それがくじ引きだとわかっていてくじを引くか、ベタ付けの景品と勘違いしたままくじを引くか、その差は大きい。

これがわからないと、アタる・アタらぬは時の運にもかかわらず、アタらないことに腹を立てて食って掛かることになる。相手が理解してくれると思っていたのに、理解してくれないと腹を立てる。相手も、一方的に意見を押し付けてくることに腹を立てる。両方が腹を立てれば、これはケンカである。かくして、「理解してくれるはず」という甘えは、結果的にケンカを生み出すことになる。こうなると、修復不可能だ。

自分の立場を説明することは、それなりに意味があるコトは間違いないが、相手がそれを支持してくれたり、同調したりしてくれることを期待するのはおかしい。にもかかわらず、特にアカデミックな人たちなどには、自分の意見以外の論調を一切受け入れない態度を取る人が多い。確かに「科学」である以上、前提となる事実認識は共有する必要がある。だが、それをどう解釈するかは、頭数だけ異説があって然るべきだ。

甚だしきは、本来共通であるべき事実認識自体が、自説のバイアスによって歪んでしまうことも多い。世の中の多数が事実としてそうなっているのに、べき論を持ち出して事実を否定しようとする、「良識派」ジャーナリストなどが典型例である。「ヒトのフリ見て我がフリ直せ」ということわざがある。こういう人たちは、自分たちの一方的で押し付けがましい態度が、相手を硬化させていることに気付かないのだろうか。

そう、相手に自分の意見を説明したければ、まず何よりも相手の意見を知ること、そして、相手に自分の意見を押し付けないことである。元来日本は、「八百万の神」の国である。八百万の神とは、「全部正解」ということ。一神教と違い、「八百万」には「原理主義」はありえないのだ。本来、日本人は、極めて他人に寛容なはずなのだ。これが、相手に甘えるが余り、歪んでしまったに過ぎない。

最初に自分の意見を主張することは、自分の意見を相手に押し付けることであり、ケンカを売っていることに他ならない。最初から、互いの違いを尊重していればウマく行った関係も、ちょっとしたボタンの掛け違えで、抜き差しならないような対立となってしまう。意見を戦わせることは、そういうリスクを孕んでいることを常に自覚し、そのリスクを回避するように行動することが重要なのだ。

そもそも、相手が自分と違う土俵の中にいる分には、どういう考えだってかまわないではないか。「おたく」の語源は、ともすると自分の知識やコレクションの優劣を競いたがるマニア同士が、無用な対立を防ぐため、それぞれのテリトリーを侵さないように、相手に敬意を評して「お宅」と呼んだことにある。世の中、総オタク化といわれているが、それなら、こういう心がけも学んで欲しいものだ。


(08/06/27)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる