臭い物にフタ






いろいろな事件があるたびに、インターネットやケータイの子供への影響が喧しく語られる。まあ、ことの本質を棚あげして、新しいものに責任を押し付けたがる傾向は、ラジオが登場したときも、テレビが登場したときも、少年マンガ誌が登場したときも、同じように語られていたので、別に今にはじまったことではない。こと日本においては、歴史とともに何度も繰り返す、ある種おきまりの対応といえるだろう。

欧米でも、ギリシャとかエジプトとかの古代の遺跡から、「最近の若い者は‥‥‥‥」という記述が発見されたというジョークがあるくらいなので、その傾向は洋の東西を問わないのかもしれない。いずれにしろ、この手の責任転嫁は、一番楽な対応である。それに対していろいろ意見もあるが、所詮は無責任な「責任の擦り付け」でしかないので、マジに対応するのもアホらしい。問題はもっと別のほうにある。

それは、やれ「有害サイトだ」「子供への影響」だというと、官庁がすぐ「規制」を考える点にある。もちろん官庁としては、「規制」が多いほうが、自分の許認可権が拡大して、利権も権限も増えるワケなので、発想がそっちへ向かうのも「むべなるかな」というところである。そもそも官僚は、ネタさえあれば規制を作って民の生活を制約するとともに、自らの権限を拡大し、それを利権化することに汲々としている存在だ。悪いことは悪いが、これはもっと大きな問題の一部として捉える必要がある。

しかし、「規制」の問題はそこだけに限らない。官僚が、こういう「規制」の発想をする裏には、なんでもかんでも「隠せばいい」という、「臭いものにはフタ」的な発想があることを見逃してはならない。これもまた官僚特有の発想、官僚とはとにかく隠したがるモノなのだ。民間の発想は、今やディスクロージャーを前提としている。公開することで、公正が保たれ、最適な選択がなされるからだ。

しかし、官の発想はこの正反対である。隠しきり、ゴマかしきりさえすれば、何をやってもかまわない。まさに、バレなければ責任は問われないという、法治主義の抜け穴を堂々を活用するのである。実は、官僚の行動の問題の多くは、このごまかしの発想にある。不祥事、天下り、談合など、官の問題は数知れないが、それらの問題は「知られなければ何をやってもいい」という発想が、官僚の行動の基本にあるからこそ引き起こされている。

こういう官僚の手にかかると、どんな制度も換骨奪胎されてしまう。官の組織の民営化とは、民間の発想でいえば、競争原理やコンプライアンスといった民間の組織の行動原理を導入することで、歪んだ官の論理を、より公正でバランスの取れた組織とすることにある。しかし官僚からすると、公益法人を形式的に民営化することで、「天下りへのチェックが減る」と期待してしまう発想に変わってしまう。

やはり、官僚とは「甘え・無責任」の権化なのだ。全ての行動原理の基本は、「自分に責任が来なければいい」というところにある。VIPの警護を行う警察署長が、自分の管内で事件が起きないよう努力するのは当たり前だが、それはVIPの安全を願うからではない。自分の出世だけを考え、キャリアに傷がつかないコトを願うからこそ、必死に安全確保に努める。

一方、隣の管内で事件が起きれば、そっちの署長にはバッテンがつく。そうなれば、ポジション競争で自分が有利になる。かくして、一旦VIPの車列が隣の署の管轄に入ると、こんどは一転して「事件がおきろ」となるという。全てが全てこういう人ばかりではないと信じているが、「自分のイス」のことしか考えていないヒトが、相当数いることも確かだ。官僚とは、こういう行動原理で動く人種なのだ。

そもそも、親方日の丸という言葉があるくらいで、就職先に官を選ぶということ自体が、「寄らば大樹の陰」を絵に描いたようなものである。そういうヒトたちが、寄ってタカって築き上げたものが、今の日本の官僚制度である。腐っていないところが一つもないのだから、自浄努力や自己改革を求めること自体が間違っている。臭いものにフタというのなら、官僚自体が臭いものなのだから、まとめてフタをしてしまうほかはないのだ。


(08/08/01)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる