秀才の終焉






最近のローティーン以下の子供を見ていると、地アタマのいい子ほど、「マジメに勉強していい点を取ろう」と思っていないことに気付く。これはある意味、今の世の中を見ていれば当然である。まじめに勉強して、いい点をとって偏差値が上がっても、それが何ら社会的に意味を持たないものになってしまっていることは、誰の目にも明らかである。それはとりもなおさず、子供の目から見ても、その事実があからさまになっていることを意味する。

偏差値の高い「秀才」が、世の中に出てどうなるか。その権化たる高級官僚は、利権の確保と拡大ばかり考え、天下り先を増やすことに汲々としている。その存在自体が、税金の無駄遣いであり、社会のガンである。民間の会社に入っても、コバンザメでしか偉くなれない分、一旦確保したポジションへは必死にしがみつくため、偽装や不祥事を生み出す温床となっている。

勉強ができること、偏差値が高いことの意味なんて、所詮、その位のものでしかない。それは、子供でも世の中を見ていればわかることである。ましてや、頭の回転が速く、物分りのいい子なら、秀才になっても未来はないことなど、容易に見切ってしまう。それでも、まじめに勉強する子がいるのは、子供なりに親の顔をたてて、素直に言うことを聞いているコトに過ぎない。

さて秀才というのは、基本的には、正攻法でマジメに勉強していい点をとる人種である。世に、暗記法や勉強法がいろいろあるように、正攻法といっても、それを効率よくこなすワザはいろいろある。そういう意味では、秀才は、正攻法が得意とはいえ、「愚公、山を移す」がごとき力ワザにたよるのではなく、スマートでエコな正攻法に長けたヒトたちということができるだろう。

しかし、問題はこの選択が、あくまでも「正攻法」の中での最適化、いわば戦術レベルの部分最適でしかないところにある。真の意味での全体最適を実現するには、「正攻法」自体が戦略として適切かどうか、というより大きな視点からの判断が必要になる。しかし、「正攻法」戦略をとることを金科玉条のごとく固定してしまっては、全体最適は不可能になる。ここを固定してしまったのでは、自分の中から戦略的発想を導き出すことはできないのだ。

もし「いい成績をとること」が戦略目標とするならば、ひたすら勉強する以外にも、とるべき策はいろいろある。試験に出る範囲の教科内容を、キチンと理解し、記憶していれば、それなりにいい点を取れる可能性は高い。しかしそうでなくても、点さえ取れればいいのなら、いくらでも方法はある。その可能性を全て考え、それぞれの得失を評価し、目的に対してもっとも効率的で合理的なプロセスを取れてはじめて、戦略レベルの思考を行うことができる。

「効率よく勉強する」のではなく、「勉強せずに最小のエネルギーでいい点をとる」発想こそ戦略である。また、満点を取る必要がなく、合格点さえ取ればいい試験なら、合格ライン以上の点数を取っても、それはひたすら自己満足でしかない。点数を取ることが自己目的化してしまえば、そういうことも起こりうる。だがそれは、そもそも手段でしかない「点数」が目的化してしまったことを意味する。

そう、戦術のみで戦略がない発想は、容易に手段の目的化を引き起こす。戦略がない以上、評価基準がない。評価基準がないと、どこまでやればOKか、誰も判断できなくなる。こうなると、別のことを実現するための手段だったことが変質し、それ自体を極めるコトに邁進するようになる。こう考えてゆくと、近代日本の不幸は、「秀才」をロールモデルとして、人材開発をおこなってきたところにあるということができる。

ある種、人間も自然界の生物である以上、あるところまで行くと、平衡に引き戻すバランス作用が働く。アタマのいい子ほど、勉強する意味、いい点を取る意味に対して疑問を持ち出している状況は、このバランス作用の発露ということもできる。昨今は、アタマの回転の速い子ほど、将来は「お笑い芸人」になりたがるという。甘え・無責任の組織人ではなく、地アタマのいい子がクリエイティブな道を目指すという傾向は、なかなか日本の将来も頼もしいではないか。


(08/08/08)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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