手をつけるべきもの






日本においては、バブル崩壊以降の放漫政策のツケから、国にしろ地方にしろ、もはや破綻状態ともいえる財政状態にある。国民の資産を担保に取れば「まだ債務超過ではない」という一点において、国際的な信用が維持されている状態であり、「官」セクタだけを取り出してみるならば、今すぐにでも手をつけなければ、財政崩壊にまっしぐら突き進んでゆくしかないことは、誰の目にも明らかである。

ところが、なかなかこの切実感が伝わってこない。確かに、財政再建優先か、景気対策優先かという議論の中で、末期的症状の財政について語られることはあるが、その改革をどう実現するかが中心的論点になっているわけではない。それは、どちらの立場の側も、あくまでも現状を現状のままとらえ、それをスタート地点として論を張っているからである。これではある意味、現状の財政のあり方そのものを肯定することになってしまう。

実は、官僚の権益確保や政治家の票取りといった視点から見れば、この二つの政策のどちらを取るかは、極めて大きな問題である。だが、国民からすれば、目クソ鼻クソのレベルである。したがって、これは永田町や霞ヶ関では重要な争点かもしれないが、財政そのものに関する議論からすれば、それはあくまでも部分最適の問題なのである。本来実現すべき、全体最適をもたらすためのポイントは、もっと他のところにある。

問題の本質は、現状でおこなっている、国や地方の財政支出が、本当に必要なものなのか、ゼロベースで検討しなおす必要がある、というところにある。今やっていることを是認して、その先をどうするかという議論になってしまえば、確かに、「増税で黒字化を図る」ことと「バラ撒きで景気を刺激する」ことは、二律背反になってしまう。だが、今やっていることを、前提としなければどうなるか。

一旦、現状の支出を全て棚卸しして評価しなおす。その上で、新たな事業も含めて、公正なプライオリティーを付け直す。無駄な公共事業や、官僚のお手盛りに代表されるように、国や地方の支出の過半数が、意味のない支出である。景気刺激策にもならず、地方振興策にもならず、ただただ官僚の利権を増やすとともに、そのおこぼれに預かろうとする、談合に浸った、経営意欲のない民間企業を利するだけのものである。

これらについては、国民の税金を費やす意味など全くない。税金のかなりの部分が、こういう「ドブに捨てている金」になってしまっているのが、今の日本なのだ。そして、財政赤字は、こういう無駄が積み重なった結果なのだ。まさに、「メタボ赤字」といえよう。財政改革とは、ここにメスをいれることなのだ。ここが改革できてスリム化すれば、問題は一気に解決する。

もはや財政再建と景気対策は、対立事項ではない。無駄な支出を全面的にカットする。無駄な官僚や公務員は、全て解雇し、組織もスリム化する。そこで捻出された原資は、莫大なものがある。これを、本当に景気高揚に効果のある投資に使っても、充分おつりがくるぐらい莫大である。そうしたら、その「おつり分」を、赤字の返済に充当することができる。今、一番求められているのは、これなのだ。

リストラすれば、いくらでも資金が捻出できる状態では、増税の議論などできるわけがない。しかし、一旦ギリギリまで絞りきったあとならば、もし必要とあれば、増税に反対する人は限られる。寄らば大樹の陰で甘い汁を吸うことしか考えない、組合や「革新政党」よりのヒトだけだろう。現状を否定できないという意味では、官僚も族議員も同じである。しかし必要なのは、現状の否定なのだ。

官庁や地方公共団体の機能は、一旦全部なくした状態を想定した上で、一つ一つ本当の必要性を査定し、なくてはならないものだけに限る。これこそが、行政改革や財政改革を行なうための第一歩である。やればできるのだ。問題は、誰が手をつけるかにかかっている。日本人の習性からして、「外圧」が入れば簡単かもしれない。しかし、そういう「神風頼み」ではなく、自らの手で自己否定ができるかどうかに、21世紀の日本の評価がかかっていることを忘れてはならない。


(08/08/15)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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