歴史の変曲点





かつて、日本が飢えていた時代においては、上昇志向が社会の基調を成していた。というより、生きていくためには、ちょっとでも「成り上がろう」という気迫が不可欠だったというべきだろうか。そういう「モノ志向」の産業社会の時代においては、社会の構成員が皆、意識的に同じ方向を向き、一つの目標に向かって動き出すことで、マストレンドが形成された。そのモチベーションは、上昇志向が求心力の源になっていた。

現状が貧しく、モノも乏しかったからこそ、今より少しでもいい生活、今より少しでも豊かな生活を得る光明が見えると、そこに向かって爆発的なエネルギーが沸き起こった。人々は、一つ上、二つ上を目指して、「クモの糸」を奪い合う。小説ではないが、多数の強欲な人々が群がれば、クモの糸は切れてしまう。しかし、その人数が余りに多かった場合には、群がった他人を足場にすれば、一段上まで上昇できてしまう。

人々の欲望のエネルギーが一点に収束すると、吹き上がるマグマのごとくに、自己目的的な上昇が実現できた。これが、高度成長期の恐ろしいところである。こういう社会環境は、1970年代に入ると構造的に変化した。ドルショック・オイルショック以降の国際社会の変化は、日本社会に対し、高度成長型の構造から、安定成長型の構造への変化をもたらすことになった。産業構造などは、比較的早くこの変化に対応したのだが、人間は、それほど急激に変われない。

状況は変化しても、人々のマインドは変化しないまま、80年代末のバブル期を迎えることになる。しかし、80年代以降にティーンズを迎え人格形成した世代には、高度成長の刷り込みはない。安定成長がデファクトスタンダードなのである。欲しいものは、すでに身の回りになんでもある。なんでもコモディティー化しており、何でも手に入る。こういう世代が、現在のF1・M1層である。彼ら・彼女らはまた、情報余りの時代である「情報社会」の申し子でもある。

回転寿司よろしく、モノでも情報でもなんでも身の回りに転がっており、気分に合わせて選ぶだけである。その選択においては、社会的に正しいかどうかではなく、自分が好きか・楽しいかで全てを判断する。この層にとっての「正しいこと」「間違ったこと」とは、自分が好きか嫌いか、楽しいか楽しくないかによって選別した結果に過ぎない。そういう選択に対する倫理的な善悪判断はさておき、現実問題として、社会はそれでしか動かなくなっていることは認めざるを得ない。

F1・M1、F0・M0層への調査結果を見ると、この傾向が顕著に現れている。彼ら・彼女らは、「ヤラセでも、八百長でも、面白ければ良い」と思っているし、「真実でもつまらないことには興味ない」のだ。ニュースとは、自分の関心事に関する最新情報のことであって、社会の動きを伝えるものではなくなってしまっている。これが現実なのだ。今の日本社会でマーケティングを実践するには、この現実を受け入れるしかない。

「べき論」ではなく、事実を事実として受け入れるのは、マーケティングにおいては基本中の基本である。このような選択を行った結果、みんなが、好きで楽しいと思えば、結果としてマスムーブメントになる。これが情報社会である「21世紀型のマス」なのである。かつてのマスのように、意識的に同じモノを選択しているワケではないので、なぜそのトレンドが生まれたかを説明することはできない。

しかし、結果としての「マストレンド」は存在する。それが、創発的に生まれたものであったとしても、である。個人的な思い入れが濃すぎると、同じような指向を持つ他人が少なくなり、ロングテールにしかならない。しかし、あまり深く考えない、刹那的な選択は、意外と同じパターンが多いものである。だから「売れない」というのは、今の時代にあった「売る努力」をしていないということだ。みんなが飢えていて、上昇志向の求心力を持っていた時代にしか適用できない、産業社会の「売りワザ」では、今は通用しないというだけなのだ。

もちろん、マーケティングとは違う、「真心の世界」はロングテールの中に存在するし、そこでもそれなりのビジネスモデルは構築可能だろう。だが、産業社会の時代のように、それを上昇志向の目標値に設定することで、量と質を同時に狙うことは、いまの「現状に満足した下流マス」をターゲットとする限り不可能である。日本が民主主義であり、ビジネスにおいても数の力がものをいう以上、こういう「下流マス」の動向を無視することはできない。

このままいけば、日本の社会は、二つの階層に分化するだろう。「心」を大切にする、少数の上流と、「目先のご利益」しかない、多数の下流。この上流・下流は、必ずしも所得の多寡の問題ではない。生きかたの違いといったほうがいいかもしれない。しかし、だからといって恐れることはない。人間社会というのは、そういう二層構造を成していた時代のほうが桁外れに長いのだ。フラットで平等な市民社会など、たかだかこの200年程度の歴史しかない。産業社会の時代など、歴史から見れば一瞬の特異点なのだから。



(08/09/05)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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