バブルと格差





サブプライム問題にはじまるアメリカ経済の破綻が、日本のバブル崩壊の過程を想起させるせいか、バブルに向かう80年代が、再び静かな注目を浴びている。高度成長期に対する80年代の特徴のひとつは、「二分法の時代」であったことがあげられる。当時の流行語で言えば、「根アカvs.根クラ」「軽薄短小vs.重厚長大」、ベストセラーになった「○金vs.○ビ」なんてのもあった。この時代の二分法は、「肯定vs.否定」という構造が特徴だ。

こういう風潮がもてはやされたのは、高度成長期のような、波に乗ればみんな平等・中流になれるという幻想が成り立たなくなり、自分も軽く明るいグループに入っているんだ、と思うことでしか、うわべの平等感、中流感が得られなくなっていた証拠ともいえる。それだけに、すでに中流幻想がほころび始めていたということもできる。実際、この時代、○金だと思って安心していたヒトの間でも、そのなかには、のちの「勝ち組」と「負け組」が存在していた。

リアルタイムで考えても、のちの「勝ち組」には、この違いが見えていたが、「負け組」には見えていなかった。本当に根アカのヒトには、実は根クラの人間が、表面的に「カルい」人間を装っているのがお見通しだったということである。だからこそ、二分法を持ち出して、生贄ともいえる「被差別者」を用意しなくては、横並びの平等感をかもし出すことができなくなっていたといえる。格差は、すでにバブル期から用意されていたのだ。

これは、マラソンの先頭集団を考えて見るとよくわかる。マラソンでは、終盤に差し掛かるまで、数人の選手がダンゴ状態でトップ集団を形成している展開になることも多い。しかし、先頭集団のメンバーをよく見ると、その時点で実力を使い果たし、ついていくのがやっとで伸びきっている選手と、まだまだスパートをかける余裕のある選手がいる。まさに80年代の日本社会では、バブルにまみれているヒトたちがこういう状態だった。

二分法の社会ということは、80年代の日本社会を動かしていた原動力が、いわば「いす取りゲーム」の原理だったということになる。不安をアオり、走らせる。常に、椅子に座れる側にいたい。常に、良い思いをする側にいたい。実態は「目クソ鼻クソ」なのだが、どうでもいい差異をあげつらうことで、そこに差別を持ち込む。誰でも、何もしなくても、右肩上がりの恩恵にあずかれた高度成長期とは異なり、それなりに「落ちる地獄」があるのが80年代だった。

言い換えれば、ネガティブなモチベーションとはいえ、80年代とは、大衆の中にまだ残っていた「上昇志向」が、最後に発揮された時代ということになる。ということは、オピニオンリーダーが、まだ機能していたことになる。だからこそ、マーケッターやプロデューサーが提示した夢に、条件反射で反応する大衆がいたのだ。ただ高度成長期と違うのは、単に「夢」のリファレンスを出すだけではさすがに反応しない時代になっていたことだ。それゆえ、「二分法」が持ち出されたのだ。

マーケティングの二分法は、「ファッショナブル」なヒトと「ドン臭い」ヒト。金さえ出せば、「ファッショナブル」なクラスタにあなたも入れる。金を出さなければ、「ドン臭い」クラスタのままバカにされる。突き詰めていえば、80年代マーケティングとはこういうことだ。カモは仕掛ける側からはわかっているが、当人が気づいていない分、ニンジンをぶら下げられると走らさせられてしまう。だがその裏側では、こういう脅しをかけた「アメとムチ」の構造が必要であったともいえる。

こう考えてゆくと、高金利政策と貸し渋りという、金融サイドからの定量的なバブル崩壊の要因以外にも、大衆の側にもバブルを崩壊させる要因があったことがわかる。いす取りゲームは、どんどん勝者の数が減らざるを得ない。敗者のほうが多数化すれば、さしもの大衆もこの構図の虚構性に気付き、もはや踊らされなくなる。その時、大衆は今の自分自身に自信を持ち、背伸びをやめてしまう。これが、生活者の意識や行動から見た、バブル崩壊の原因である。

さて自信を持ったマスが、極めて現状肯定的に振舞うというのは、考えてみれば当たり前である。今の状況に満足し、不満がないからこそ、欲求はあっても、不満に満ちた否定的なエネルギーとはなりにくい。1990年代中盤以降、日本社会のヴォリュームゾーンとなった「下流マス」。そのマインドは、すでにバブル期の80年代に熟成されたいたのだ。恐竜は絶滅したのではなく、環境適応して鳥類に進化したのと同様、バブル期のマスは、時代に適応して「下流マス」に正常進化した。

貧しくて飢えている時には、その辛さを忘れるための代償行為として、豊かな未来への希望があった。しかし、かつてそれは誰も見たことのないものであり、そこに対する憧れが、大衆にとっての向上心となっていた。だが、湯水のごとく浪費できるくらい金にまみれても、それで豊かさや満足が得られないことは、バブル期の経験から、皆わかってしまった。豊かさは、手に入らないものであるからこそ、希望であり夢だったのだ。

その目標が、決して手に入らないものという意味では、団塊世代の「一億層中流」の夢は、団塊Jr.世代の「自分探し」の夢とかわらない。団塊世代の持っていた「リッチになりたい」という目標値が、団塊Jr.世代の「クリエーターになりたい」という目標値より、定量的でわかりやすかっただけである。なろうとしてもなれないもの、手に入れようとしても手に入らないものに、無謀にも自己同化を図ろうとする習性は、さすがに実の親子、まさに同じアナのムジナだといえよう。



(08/09/12)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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