コンピュータの夢





かつて、コンピュータに夢があった時代があった。こう言うと、40代以上の中高年、シニアのヒトは、怪訝に思われるかもしれない。しかし、怪訝に思うということ自体が、それが「過去形」であることを示している。いまや、パソコンやインターネットは、三浦展氏の指摘を待つまでもなく、下流の友。ほとんどタダで、いくらでも時間が潰せるツールとして、低所得者層ほどハマっている、超コモディティーである。だからこそ、マスの必需品となったともいえる。

この分岐点となったのが、1995年。Windows95の登場である。それまでのDOSの時代、確かにパソコンには、不思議な魔力があった。このツールを我が物にしている人種と、触ったこともない人種。その両者の間に、曰く言いがたい「断層」があったのだ。ある種の「魔法」のような、その魅力。そういう時代を、身をもって体験した世代にとっては、確かにコンピュータは、魅力があり、夢があるツールであった。中高年の勘違いは、その時代をいまだにひきずっているというだけのことでもある。

ぼく自身、70年代半ばの、TK-80、apple][、PC-8001といった8ビットのマイコン、パソコンブーム以来、そのまっただ中にいただけに、ある意味、人々がコンピュータに対し持っていた夢、「高度情報化社会」に対し持っていた夢は、実体験としてよくわかっている。電々公社の民営化とともに行われた、通信の規制緩和によって実現した「パソコン通信」も然りである。それだけに、Windowsの登場とともに、コンピュータの世界がぼくらの手から離れていってしまう実感は、強く感じていた。

多分、ヒットとかマス化とかいうのは、そういうことだ。限られた人達の間でしか普及していない時代においては、クリエイターとユーザは、ほぼ同一の集団に属している。全部合わせて、一般社会からは隔絶されているといってもいいだろう。しかし、それではマスにならないし、ビジネスとしても限界がある。アニメでもゲームでも、マニアのモノだった時代と、ビッグビジネスになった時代とは全く違う。そういう意味では、コンピュータが「おたくの王様」だった時代があったのだ。

このところ、また着目されている80年代。バブルに向かうその時代においては、「二分法の椅子取りゲーム」が価値観の基準だった。人前ではずかしくない人間であるためには、「根アカ」でなくてはならず、自分が(本当にそうかはさておき)根アカであるコトの証は、「根クラ」な人間を差別し、いけにえにすることでしか得られなかった。その時代において、「根クラ」な人身御供の代表は、「おたく」であった。どのクラスにも一人や二人はいるような「おたく」は、当人が差別されることに鈍感なこともあって、もっとも手軽ないけにえであった。

ここまでは、よくある80年代論である。DCブランド論であっても、ピテカンのような80年代型クラブや霞町のカフェバー論であっても、大体このアタりの二分論が基調となっている。80年代は、今からは考えられないような、アンチおたく、ハイブロー指向の時代であった。ところが、ここに一つだけ特異点が存在した。それは、多くの80年代論では(それが40代、50代の論者によって語られているがゆえに)抜け落ちてしまっている点である。それこそまさに、コンピュータなのだ。

90年代半ば以降、自称漫画家が自作を発表する場だった「コミケ」が、人気同人作家の作品を「購入」する場になってしまったように、クリエイターとしての立ち位置が基本だった「おたく」は、純粋消費者たる「オタク」に変化してしまった。それとともに、秋葉原が「アキバ」となり、カタカナ「オタク」の聖地となった。その伏線としては、秋葉原がコンピュータの聖地であったことがあげられる。バブル崩壊頃までは、コンピュータこそ、当時のひらがな「おたく」にとっては、もっとも崇高な存在だったのだ。

しかし、80年代当時を振り返ってみると、コンピュータに対する畏敬の念は、「おたく」たちだけのモノではなかった。一般の人たちにとっても、コンピュータは「夢の道具」だったのだ。だからこそ、ジャギーがあるだけで絵になっていなくても、「CG」といってもてはやされたり、せいぜい2小節のリフを繰り返すだけでも、「コンピュータミュージック」といってヒットしたりした。そう、コンピュータは、80年代にありながら、80年代特有の二分法を越えてしまっていたのだ。

根アカなヒトも、根クラなヒトも、コンピュータに対して持つ夢は同じ。ある意味、「価値観を一軸に収斂させること」が80年代の本質だとすれば、それを否定するもう一つの軸としてコンピュータの夢が存在していたのも、80年代の特徴である。80年代的価値感の「獅子心中の虫」こそ、コンピュータだったのだ。こう考えてゆくと、マスとしてのカタカナ「オタク」が成立し、パソコン・インターネットが下流の友となる21世紀とは、80年代的二分法を、蟻の一穴たるコンピュータが崩してしまった、正常進化形ということもできる。まさに、「これから」を考えるためには、80年代をもう一度「総括」しなくてはならない理由でもある。



(08/09/19)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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