頭数と人材





金融危機以降の日本では、いくらリクルーティングしても、適切な人材が全く見つからない一方で、仕事がしたくても仕事にあぶれてしまう人々が、いつもあふれている状況が、極めて日常的に見られるようになった。非正規雇用の従事者の問題に関しては、当人の実力と希望のアンマッチングで「自分探し」という面もあるモノの、「働きたくても仕事がない」というヒトもかなり多い。どうも、働きたいと思うだけでは、仕事にありつけない世の中になっていることは確かだろう。

今の労働人口の多くは、労働市場が完全に売り手市場だった時代に育った人である。高度成長期は、どの企業も「誰でもいいから、労働力の数を必要数充当したい」というニーズを持っていた。それは製造現場でも事務部門でも、機械化・自動化が進んでいなかったので、企業規模が拡大すればその分だけ、確実に労働力が必要となったからである。ましてや、経営努力をしなくても、追い風だけで右肩上がりの業績が残せた時代である。

その後、ドルショック・オイルショックを経て、円高に見舞われる中、日本企業は、コスト削減への驚異的な努力を行った。その結果、製造現場では、ロボットの大量投入代表されるような自動化が進むとともに、事務部門でもコンピュータ化・ネットワーク化が進んだ。企業によりその程度は異なるし、達成度により、その後の「勝ち組・負け組」の選別が行われたことも確かだが、全体としての体質は、確かに改善された。

そういう努力の賜物として、バブル崩壊以降の日本経済のダッチロールの中でも、日本という国レベルの活動を越えて、グローバルに活躍し成長できる企業が登場したといえる。しかし、だからこそ、それらの「勝ち組」企業においては、単純労働、単純作業を行う人間に対するニーズはなくなってしまった。それは機械の仕事であり、旧態依然として人間がやっていたのでは、日本企業はとてもグローバル市場で競争力を持ち得ない。

世の中は、急速に変化した。しかし、終身雇用に安住していた労働者は、全く変化しない。勤務先企業が潰れても、リストラクチャリングされたりしても、単純労働、単純作業で次の職場があると思っている。しかし、世の中的には、そういう労働者を抱えていたのでは企業のほうが潰れてしまうからこそ、職を失ってしまったのだ。これが、労働市場がアンマッチングになる理由である。就職を希望する頭数はいる。しかし、その中には企業が求める、付加価値を生み出せるような「人材」はいないのだ。

これは、オープンな労働市場でなくても起こりうる。企業の内部でも、恒常的に見られる現象となっている。「あるポジションに、社内の誰でもスカウトできる」となると、そこで名前が出てくる人間は、どのセクションでも、特定少数の人間に集中してしまう。新しい部門の立ち上げ時などには、よく見られる現象である。実は、外面的にはウマく回転している会社でも、「人材」は足りず、頭数だけが多いのが現実だ。これが、昔でいう「窓際族」、今でいう「ニート社員」が発生する理由である。

そういう意味では、勝ち組といえども、ある面では、潰れてしまった企業と紙一重。「頭数だけ」の社員数が、ある限界値以内に収まっていれば、なんとか生き残れるが、それを越えていたのでは、企業は存続できない。それだけのコトだ。こう考えてゆくと、労働者の権利を重視しすぎる、日本の硬直した労働行政が、いかに日本企業の競争力を奪い、日本経済に悪影響を与えているかがよくわかる。占領軍は、のちのち日本の競争力を奪うために、労働者の権利を大幅に認めたのではないか、とさえ思いたくなる。

日本には、課題解決力を持った人間は極めて少ない。いわれたことだけをやる人間はいるが、それならコンピュータ化したほうがコストが安い。これは、「追いつき追い越せ」しか考えてこなかった近代日本が、その目的のためだけに最適化を図った社会システムの「成果」である。今、一番大事なのは、自分が「人材」なのか「頭数の人」なのか、キチンとわきまえることだ。まさにそれこそ、偏差値に代わる、これからの日本における人材の価値軸として意味があるものである。


(08/10/03)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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