向上心と羞恥心





かつての日本では、努力すれば、自分は変われるし、世の中も変われるんだ、という感覚が共有されていた。だからこそ、上昇志向を持ち、いつかはあこがれの暮らしを手に入れるんだ、とばかりに夢を追いかける努力をしていた。このような考えかたは、変化の多い高度成長期には常識といえるだろう。まさに、今高度成長が訪れている中国などでは、人々が日々実感として感じていることといえる。

昨今の昭和ノスタルジーブームを引くまでもなく、街を見ていれば、見る見る道路ができ、ビルが立ち、人があふれてくる。人々、一人一人の生活も大きく変わる。「洋食」を食べることもまれだった人々が、毎週、いや週に何日も肉やパンを食べるようになる。テレビや電話といった文明の利器が、家の生活の中に入ってくる。まさに、瞬きする間にも「世の中が変化している」のが、高度成長期の日本社会の特徴だった。

もちろん、今も変化は続いている。確かに、この十年でも、東京にビルは増え、街の景色は変わる一方、地方の過疎化は一段と進んでいる。しかし、それは「すでにあるものが、さらに増える」という、程度の問題であり、今までなかったモノが突如登場するパラダイムシフトではない。高度成長期の変化が常にインパクトを伴っていたのは、この「今まで見たこともないモノ」が次々現れてくるところにあったのだ。

そういう意味では、数が増えたところで決して驚かないし、どんなに増えても、質的には「想定内」である。この15年ほどの日本社会を規定しているのは、この「数が増えても想定内であり、想定外のモノが登場してくる可能性は、ほとんどない」というところにある。日本を覆い尽くす「まったり感」は、この「新しいモノが出てくる可能性のなさ」の裏返しである。変化する状況を見たこともない人々が、変化を求めるわけはなく、変化を起こせるワケもない。

だからこそ、若者の間では「状況は変えようがないし、変えようと思うよりは、状況に合わせた生きかたを選んだほうが良い」、という感覚が常識化しているのだ。これはある意味、環境への適応である。変化しない社会、変化し得ない社会に生まれ、生きるためには、変化を求めることは得策ではない。変化のない中で、いかに生活を楽しみ、充実させるか。当然、そちらを優先させることになる。

これはこれで生きかたの選択なのだから、どちらが正しいとか、どちらがいいとかいうことはない。当人が納得して、満足できれば、それだけでいい話である。この結果、若者から「向上心」は消え、皆、極めて現状肯定的に生きるようになった。ついて行けないと思ったら、「オリた」ほうが幸せである。無理して疲弊し心の傷を広げるよりは、現状の相対的にいい所だけに注目し、ハッピーに生きたほうがいい。これはこれで、合理的な選択ともいえる。

向上心がなくなると、みんな一番ベタなところまで降りて、気ままに暮らすことが可能になる。ここでは、失うモノがない。だから楽なのだ。しかし、失うものがない、ということは、失う面子や、失う名誉もないということでもある。そうすると、新たに起こる現象がある。それは、「恥ずかしい」がなくなってしまうということだ。面子や名誉が傷付くからこそ、恥ずかしいことをしないモチベーションが働く。逆に、傷付くものがなければ、恥ずかしくても何ら困らない。

かくして、今の30代半ばより下の層では、「羞恥心」が消えてしまった。見られている感じがしないし、見られても困らないのである。無理に背伸びをする上昇志向は、確かに消費マーケットの推進力としては有効だった。だが、それは浪費を増しただけで、エコロジカルではない。高度成長を是とする人々からは、好意的には受け取られないだろうが、「まったりしていても、恥ずかしくない」世代は、そういう意味では、サステイナブルな生活を先取りし、進化した世代と見ることもできるだろう。


(08/10/10)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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