成長への決別





経済成長は、産業社会においては、絶対的な基本原理であった。経済が成長することで、社会が豊かになり、人々が幸せになる。これが近代においては、ある種宗教的ともいえるような絶対的信念として、世界を惑わしてきた。しかし、それは人類史上普遍的な命題ではない。今まで何度も語ってきたように、産業革命以降の200年に固有の、どちらかというと特殊な価値観である。まず、これをしっかりアタマにおくべきだ。

確かに、「差」があることが、わだかまりやいざこざを生むコトがある。経済が成長すれば、その「差」は少なくなり、世の中は良いほうに向かう、というのが、成長派のロジックである。ある面では、そういう傾向があることを認めることはやぶさかではない。しかし、いくら成長しても「差」がなくならないこと、豊かになれば豊かになったなりに、別の「差」が生まれてくることは、まさに近代の歴史が証明している。

人間は豊かになればなるほど、欲望が拡大する傾向にある。マズロー理論のように、貧しい間は生きることに精一杯で、それ以上の欲求を持つヒマさえないことも多い。ある程度豊かになってはじめて、「その先」の贅沢がしたくなる。こうなると、欲望の自転車操業である。これがもたらすものは、バブルしかない。ある意味、経済のバブル化は、成長を是としている以上避けられないものといえるだろう。

ローンを組まず、自己資金だけで家を買ったヒトなら、バブルが崩壊しようが、金融機関が破綻しようが、何ら影響はない。本来、実体経済とはそういうものである。右肩上がりを前提に、「増えるであろう」将来の収入を担保に、現時点での消費を行うのがローンである。過去の収入を貯蓄して、それを元手に購入するのなら、リスクもないし、実体経済そのものである。本来の経済システムは、資本主義とはいえ、こういう確たる実体経済をベースとしたものであった。

しかし、ローンでは多くの場合、「まず買ってから、あとで払う」ことになる。ここには、大きなおとし穴がある。あとで払うといっても、将来の収入が保証されているわけではないからだ。実は、そこには多大なリスクがある。成長がいつまでも続き、右肩上がりで経済が発展し続ける、というのは空想である。だが、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」とばかりに、右肩上がりをみんなが信じているだけで、ヘッジした気になっていたのである。

実は、そこには思いこみだけで、何の保証もなかったのだ。元来、クルマにしろ、不動産にしろ、自己資金のキャッシュで買うものである。まず、手持ち資金を充実させ、それで対応できる範囲で消費する。これこそ、健全な実体経済である。20世紀でも、堅実な金銭感覚を持つ人は、そういう消費をしていた。元来ローンとは、元手を借りるものではなく、短期資金を借り入れるモノだ。短期キャッシュフローの調達以上の借入は、リスクでしかない。資金はあるが、長期運用にかかっている場合、それを担保に短期資金を借り入れるのが、故人の借入のあるべき姿だ。

こういう使いかたをする限り、ストック資産は、増えることはあっても、減ることはない。資産は、ストックとフローの違いがわかっているヒトだけが持つべきものである。フローしかわからない人間には、資産を持つ資格はない。どんなに金を稼いでも、いや稼げば稼ぐほど、成金は身を持ち崩すだけである。これは、資産を持たずに育った成金では、ストック的なお金をどう扱えばいいか、そのリテラシーがないからである。

成金とは、もともと「持たない」人々が、「持てる」夢を見ているだけ。それはすなわち、虚構の世界である。ある種、将来の虚構の消費をアオったからこそ、バブル崩壊は起るし、それで影響を受けるヒトがでてくる。そういう意味では、産業革命以降の経済発展も経済成長も、所詮はうたかたの夢である。人類史上においては、それ自体がバブルなのであり、歴史上の特異点でしかない。いつかは破綻する運命なのだ。

ブレはあっても、長い目で見れば、歴史は一定のペースで、遅々とした、しかし安定的な歩みを進める。21世紀型社会の構築とは、この産業社会的な価値観を脱することにほかならない。それは、とりもなおさず、成長を前提としない社会システムを作りあげることである。あるものはあるが、ないものはない。いいかえれば、無い袖は振れないことを認め、自分のできる範囲で我慢して生きる生きかたを、人類が身につけることが、21世紀を幸せな時代にする、最大かつ最高の方程式なのだ。


(08/11/07)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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