最後の本音





この20年ほどで、経済の分野においては、新古典派というか、市場原理が世界標準となった。昨今の世界経済の混乱を、市場原理のせいにする向きもあるが、それは間違っている。過剰に信用を創出したので、投資に回る資金が、実体経済の需要を越えてしまったというのが、昨今の経済危機の要因である。それを投機に向かわせた点においては、市場原理の影響もあるだろうが、それは結果であり、原因ではない。そして、市場原理は経済のみならず、政治をはじめとする社会の標準とさえなった。

アメリカでは、次期大統領にオバマ氏が選ばれた。これはある意味、新古典派的というか、市場原理が社会の基本原理になったことの、必然的な成果といえる。あるひとつの明解な規準が与えられ、その軸でのみ勝ち負けが決まる。これが市場原理の基本だ。優秀な人間か、凡才な人間かがストレートに問われ、真に優秀な人間には、相応のチャンスが必ず与えられる。これを、市場原理の社会といわずして何といえよう。

そもそも、人種差別自体が、白人の凡才な人間の既得権を守るためのものであった。アメリカの場合、過去も現在も、数から言えば「白人の凡才」が最大のヴォリュームゾーンである。彼らの利権を守るためには、「優秀な人間」vs.「凡才な人間」という能力勝負にしないことが最大のポイントである。このためには、白人vs.有色人種を唯一の対立軸とし、能力の問題を持ち込まないことが肝要だった。

有色人種の有能な人間より、白人の凡才のほうを上に置くことにより、有色人種の有能な人にチャンスを与えないこと。これさえキープできれば、白人の中での能力差、有色人種の中での能力差はクリティカルな問題にはならなくなる。しかし、これは市場原理ではない。まさに官僚の許認可行政と同じ、競争のない不公正な環境である。これを解決するには、倫理的な運動では不充分であり、社会の原則として競争原理が徹底する必要があったのだ。

このように、社会における競争原理が貫徹しだすと、実態とかけ離れた「タテマエ」は行き場を失う。「タテマエ」とは、実質とはことなる意図的な「理想的」環境を示しており、決して自然な状態ではない。一方、完全な競争市場の下では、最終的には最も自然な環境に収斂する。すなわち、競争原理に基づく市場においては、「タテマエ」などありえず、「ホンネ」しか存在しないということだ。それは、「ホンネ」でなくては、マジョリティーを取れないからだ。

近代国家における政治の世界では、洋の東西を問わず、「タテマエ」が基本になっていた。日本でも、「ホンネ」の発言をする政治家が、「失言」として地位を追われる事案が跡を断たない。これなど、政治がいかに「タテマエ」の世界に終始していたかを示す良い例である。オピニオンリーダーとマスフォロワーがいる、「近代社会」の構図においては、コミュニケーションは一方通行だったので、オピニオンリーダーは「タテマエ」を語るだけでことたりた。

アメリカでも、「politically collect」というコトバがある。これなど、日本語で一番しっくりするのは、「タテマエ」というコトバであろう。みんなが思っている「実態」とは、大きく異なる「正義」である。まさに、政治はこういう「タテマエ」の中でしか動いていなかった。しかし、世の中の状況は大きくかわった。社会の情報化が進むとともに、オピニオンリーダーとマスフォロワーという関係は崩れ、ネットワーク型の関係性の中から、自分が好きな情報、楽しい情報だけを選ぶ環境が常識化した。

昨今の政治離れは、実はこのように、「ホンネでしか語らない大衆」と「タテマエでしか語れない政治家」との間でのディスコミュニケーションのもたらしたものである。俗に「新聞離れ」といわれている「ジャーナリズム離れ」も、「タテマエ」を押し付けるジャーナリズムに、大衆がそっぽを向いている構図に他ならない。政治における「change」の本質はここだ。「ホンネを語れる政治家」。ジャーナリズムはコテンパンに叩くだろうし、既存政治家の反発も強いだろう。しかし、政治が選挙をベースとしている以上、必ず勝てる。大衆が政治に求めているのは、「最後の本音」なのだ。



(08/11/14)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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