目的と手段





日本で「国際化」を語るときには、英語でも中国語でもいいが、すぐに外国語の語学力の話になる。確かにコトバの問題は重要ではあるが、よく考えるとこれはいささか本末転倒である。外国語はあくまでもコミュニケーションの手段であり、それ自体が目的となるものではない。なにか「伝えたい内容」があり、それを相手に伝えることが目的なのだ。目的がないまま、手段だけいくら充実しても、何の意味もない。

実は、日本人においては、この「伝えたい内容」をきっちりと持っているヒトは、極めて少ない。国際化の真の問題は、ここにあるのだ。実際日本の企業では、日本語でもマトモに自分の意見がいえなかったり、議論を闘わせなかったりするヒトが多い。日本語でも交渉力を発揮できない人が、いかに語学を学んでも、外国語で交渉力を発揮できるワケがない。この場合語学力は、交渉力を発揮するための手段に過ぎない。

そういう意味では、国際化のために必要なのは、キチンと自分の意見を持ち、自分なりのモノの見方ができる人間である。こういう人材を、仮にグローバルレベルの人材と呼ぼう。これは、ある種の才能である。グローバルレベルの人材というだけで、希少なリソースなのだ。そもそもこういう人間でなくては、いかに外国語を学んでも宝の持ち腐れである。これえでは、インフラだけあってコンテンツのない、ハコモノ行政と同じである。

ハコモノは、金さえあれば、志がなくても誰でも出来る。だから、センスも志もない官僚にでもできるのだ。というより、官僚的な秀才では志を理解できず、金をつぎ込むだけの、ハコモノ行政になってしまう、というほうが正解だろう。その一方で、コンテンツは才能のあるヒトしか創れない。凡才には手が届かず、理解できない世界なである。語学力とグローバル人材の関係は、まさにこのハコモノとコンテンツの関係と同じである。

これが、グローバルについてゆけない、最大の構造的問題である。日本語でプレゼンテーションがうまいヒトなら、外国語でプレゼンテーションを行い、外国人を説得することは、さほど難しいことではない。逆に、日本語ですらプレゼンテーションができないヒトが、いくら外国語を習ったところで、外国語でプレゼンテーションが出来るようになることはない。この二つは、違うコンピタンスである。

そもそも、高度成長期に右肩上がりの風だよりだけで成長した企業が多い日本では、戦略的な経営が求められることは少なかった。経営の目的が問われることもなく、戦略目標を明確化する必要もなかった。トップからして、風の向くまま、流れに身を任せていれば、それなりに利益が上がったのだ。経営者がこうなのだから、ましてや一般の社員において、キチンとした自分なりの立場や意見を明確に持つ必要もさらさらなかった。

しかし、それは「高度成長下の日本」だからこそ通じたワザであり、世界で通用する経営ではない。だが、幸運は重なるモノで、進駐軍が設定した1$360円という、実勢を無視した法外なレートにより、その圧倒的な「安さ」だけで、経営努力がなくても、in-outによる海外進出が可能だった。だが、それらは実力ではない。創発的に、運が良かっただけのことである。ここに、日本企業が、グローバルな人材を求めるより先に、語学力を求めてしまう下地が生まれたのだ。

勝負師のプロアスリートと、スポーツ万能の体育の先生、アイディアを形にするアートディレクターと、版下フィニッシュワークのデザイナーというように、目的を達成できる人材と、手段を達成することしかできない人材とは、似て非なるものである。しかし、この違いは、その道にある程度詳しいヒトでないと識別できない。だからこそ、凡人は手段を極めただけで、達人と思い込んでしまうのだ。

問題なのは、自分の意見や視点を持つコンピタンスは、生まれながらの才能に多くを負っており、そういう才能のないヒトが、いかに努力したところで、能力を身につけることが難しい点である。だからこそ、誰でもとっつきやすい「手段を身につける」ことが目的化してしまうのだ。そろそろ、無意味な平等感から脱皮すべきだ。凡才は、努力したってはじまらない。無駄な努力をするのは、エコロジカルでないし、サステイナブルでもない。無意味な汗は、21世紀には似合わないのだ。


(08/12/19)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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