雇用と報酬





安定成長とは、人々が右肩上がりを否定し、常に成長・拡大を求めない意識を共有することにより、確固たるモノとなり、文字通り安定的なパラダイムとなりうる。このためには、社会全体のマクロ経済的な意味での成長だけでなく、個々人の生活のレベルでも成長・拡大を求めないことが前提となる。このような価値観が社会的に共有されることが、21世紀的な社会のダイナミズムを生み出す前提となる。

去年よりも今年、今年よりも来年と収入が増加するというのは、高度成長を前提とした産業社会的なスキームである。これは、現代社会では半ば常識のように信じられているが、他の産業社会的なスキームと同じように、その永続性は単なる幻想である。今生きている人々が、それしか知らないというだけで、それが永遠・絶対のものではない。いくらでも違うスキームは存在する。それに目をつぶるのは、現状否定が恐いというだけのことだ。

社会的には誤解している向きも多いが、すでにここでも何度か述べたように、終身雇用は決して悪いシステムではない。終身雇用が日本の競争力を奪ったのではなく、悪いのは、日本式雇用慣行のなかでも「年功給」のほうである。同じ仕事をしているのに、年数の違いだけで給料が違うというのは不合理であり、資本主義の原理にそぐわない。給与水準は、あくまでも仕事の質によって規定されるべきものなのだ。

同じレベルの仕事には、同じレベルの給料。これは、市場原理が機能していれば成り立つ、資本主義経済の原則の一つである、一物一価の法則そのものである。もちろん、最初の数年は見習い期間であり、初心者だった人間も経験値が高まるだろうから、その間は、マスターすべき水準を設定して、それをクリアすれば給料が上がる、といったシステムがあってもいい。しかし、一定の水準をクリアすれば、それ以降は同じ仕事には、同じ給与水準でなくてはおかしい。

給与水準を上げたければ、同じ仕事ではなく、より付加価値の高い仕事をするか、より生産性の高い仕事をするか、どちらかしかない。それは、仕事をより高いレベルにシフトアップすることだ。年とともに経験を積んで、レベルアップしていくべきなのに、同じ仕事しかしていない・できないというのは、年功評価としては低くなるハズだ。それが、同じ仕事をしていても、年齢が上がるだけで給料が上がる、甚だしきは、年齢を重ねるとともに手抜きを覚えて、やるべきコトをやらなくても給料が上がる。

こんな制度が、成り立つワケがないのだ。これこそ、「甘え・無責任」によって立つ「40年体制」の官僚システムが、基本的に社会主義的な労働政策を取り、極めて労働者に甘く、仕事をしなくても貰うものだけは貰えるような社会を造ってしまった弊害である。それを許したのが、高度成長だった。ハコモノと土建のバラ撒き行政も、悪平等の労働行政も、済んでしまったものは仕方がない。問題は、その前提が成り立たなくなった今でも、そういう施策を続けようとしていることである。

この結果、仕事をしないで給料だけ高く貰おうとするのが、日本の労働者の習性となった。しかし、一番低いレベルの仕事は、終身雇用であっても、その給与はグローバルレベルの基準に見合ったものでなくてはおかしい。これが基本である。もっと給料が高くないと生活できない、というのなら、もっと付加価値の高い「仕事」をすべきなのだ。その努力をせず、最低限の働きにもかかわらずもっと金をよこせというのは、余りにおこがましい。

一方で、低賃金では喰って行けない、生活が成り立たないという声もある。それなら、「全てを給料でまかなう」発想そのものを変える必要がある。歴史を振り返ってみよう。ヒトが喰っていくことを考えるのなら、給与生活者という制度に囚われる必要性などないことに気付くはずだ。給与生活者というスキームから自由になれば、正規雇用・非正規雇用という問題からも自由になる。今の労働環境の問題の多くは、給与生活者以外に、生活パターンを考えられなくなっていることに起因する。

人類の歴史を振り返ってみるならば、給与生活者自体が、近代産業社会の産物であることであることがわかる。そもそも、長い歴史の中では、「組織への被雇用者」というカタチより、「個人や個人事業への丁稚、奉公人、使用人」というカタチのほうが、より普遍的であった。高度成長がはじまる昭和30年代より前は、庶民の生活というレベルでは、ほぼ戦争前と変わらない状況が継続していた。「三丁目の夕日」ではないが、ちょっと前の日本では、そういう労働形態のほうが多かったのだ。

近代社会的なフレームと、日本の伝統的なフレームとがバランスしていた。農村部においては、共同体的な大家族制がまだ機能していたし、それがこの時代に生まれた「団塊世代」の意識・行動を特徴づけるものとして刷り込まれていたことが、なによりも事実を語っている。そういう意味では、金銭化しない。家庭内労働力としての雇用の復活は、今後の社会においては極めて重要になる。丁稚、奉公人、使用人を雇うのは、ストックのある人の義務とすべきだ。なんのことはない、昨今ノスタルジックに語られている、その時代に戻るだけのこと。「昭和ブーム」も、ある種人間本能のバランス感覚といえるかもしれない。



(08/12/26)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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