「おたく」の極意





昨今「オタク」といえば、空気が読めない連中の典型のように思われている。確かに、アスペルガー症候群のような方々も、アキバに行けば容易に出会うことができる。イベント時など、独善的に暴走し、周りの一般市民に迷惑をかけまくるヒトも多い。そういう現代の「オタク」しか知らない人々からするとビックリするかもしれないが、元祖「おたく」な人々は、極めて人間関係に敏感で、空気を読むのに長けたヒトたちだったのだ。

そもそも、「おたく」という呼び名が生まれた語源を考えれば、このあたりの事情はよくわかる。「おたく」とは、コミケ創成期である70年代後半、マニア同士が相手を「お宅」と呼び合ったことに由来する。当時のマニア、特に漫画マニアは、相手と直面して話すとき、直接名前や、あなた、きみといった人称代名詞で相手を呼ぶ代わりに、「お宅の」とか「お宅は」とかいう表現で呼んだのだ。

これは、相手の背負っている世界に一通りの敬意を評しつつ、「自分の世界はまた違うという」自尊心も満たすために生まれてきた言いかたである。共通の基盤があるものの、互いの世界の間には、それなりに距離がある。この関係性を確認しあうとともに、相手と正面切って対決する気はさらさらないことを示すために生まれた呼び方が、「お宅」なのである。その意味は、「当時のマニア」の気質を考えればよくわかる。

マニアは、自分の得意な領域では、誰にも負けない「ナンバーワン」だという自負が人一倍強い。だから、マニア同士が同じ土俵に乗ってしまうと、雌雄を決するまで徹底的に戦うことになってしまう。だがその一方で、皆が皆そういうマインドであることを、互いによく知っている。だからこそ、不用意にぶつかって「総力戦」を戦わざるを得なくなるような事態を回避するように動く。

すなわち、直接ぶつからないように、それぞれが極めて近い領域にいるとしても、それぞれ似て非なる土俵を作り、違う土俵のチャンピオンでいられるようにするのだ。ちょうど、ボクシングで体重別に各クラスのチャンピオンがいるようなモノである。そして、それぞれ違うクラスのチャンピオンとして、お互いを尊重するとともに、直接対決をしないで済むようにする。こうすれば、「どっちが上」かを競う危険性はなくなる。

マニア同士は、好きな趣味の話をし合うし、場合によっては、自分の土俵内での自慢をし合う。その意味では、ウマの合う相手ではある。しかし、誰もが天狗でいたいという願望も持っている。これを両立させるには、「離れていないが、近すぎない」という、絶妙な距離感をキープすることが何よりもカギになる。そして、これがウマくできることが、マニアのコミュニティーに溶け込むための必須条件だったのだ。

当時の「おたく」(ひらがな「おたく」)は、今の「オタク」(カタカナ「オタク」)のような純粋消費者・コレクターとして自己規定していたのではなく、その技術レベルはさておき、クリエイターとして自己規定し、送り手の立場に自分をおいていたコトと密接な関係にある。ウマいヘタは関係ないとしても、漫画を描かないことには、そもそも漫画の同人ではないのだ。そして、「漫画家」であることが、コミュニティーの仲間になるための前提だったのだ。

ここでも何度か触れたが、これを反映して、創成期のコミケ(当時は「コミケット」だ)は、自分が作った同人誌の「発表の場」であった。当時から、コレクターはいなかったわけではないが、なんといっても主役は自ら同人誌を刊行するサークルであり、そこに集う人々が、互いの作品にふれ合う場だったのだ。だからこそ、今の「オタク」に通じる「買うだけの人」は、一段低い存在とみなされていた。

そういう自尊心の強いヒトたちが、協力して同人誌を発行しなくてはならない。そういう事情があったからこそ、人一倍、互いが共存できるための気遣いをし、それが「お宅」という呼び方に結実したのだ。この事情は、その後パソコンソフト関係のヒトたちに受け継がれた。技術レベルはさておき、何よりもまずプログラマでなくては仲間でない。その中で、互いの世界を尊重しつつ協力関係を結ばなくては仕事にならない。まさに、瓜二つの構造である。

それだけでなく、漫画やパソコンといった世界自体が、社会のメインストリームからは疎外された、カウンターカルチャーだったことも大きく影響している。自分達の世界を維持するためにも、つまらないコンフリクトは避け、同じ方向に力を合わせる必要がある。そのため、エネルギーのかなりの部分を、良好な人間関係を維持するために使う必要があったのだ。

自分の望む世界を築くためには、人間関係には最新の注意が必要なのだ。逆にいえば、自分の目指す世界のない人は、究極的には人間関係にコンシャスになり切れない。そういう意味では、そもそも、大衆というのは空気が読めない。大多数の庶民は、「KY」とか言って「空気」に気を使っているようでも、実は、目立たないようにしているだけで、肝心のところの気づかいができるヒトは少ない。だからこそ、世の中が、全体として空気が読めないほうに来ている。

カタカナ「オタク」は、そのマインドが大衆だからこそ空気が読めないのであって、マニアだから読めないのではない。それは、マニアの原点ともいえるひらがな「おたく」の歴史をひも解けばよくわかる。来年はコミケ35周年。今年から来年にかけては、元祖「おたく」に関する論調が増えそうである。その中からは、人間関係の維持に並々ならぬ努力を費やした先人の足跡を、ぜひ読み取っていただきたいものである。


(09/01/16)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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