元祖「おたく」の時代(その1)





おたくが「オタク」ではなく、「おたく」だった時代。こう書くと、事情を知らない人にはなんとも判じ物だろうが、このコラムを呼んでいただいている方なら、充々ご承知のコトと思われる。そう、純粋消費者としての「オタク」が勃興し、オタクビジネスがマス・マーケティングとして成り立ってしまう前、「おたく」的世界が、本当に限られたマニアの同人の間だけのものだった時代である。

具体的には、「コミック・マーケット(カタカタ「オタク」の中には、この正式名称を知らない人も多いかもしれない)」がはじまった1975年から、ウィンドウズとインターネットの登場により、パソコンが必需品となった1995年までの20年間である。1995年は「コンピュータの夢」が消えた年として、その時代の前後にパソコンソフト業界に関わっていた人々の間では忘れられない。この年をもって、ひらがな「おたく」を支えていた共同幻想は完全に消えてしまった。

しかし厳密に言えば(こういうことに厳密もないのだが)、歴史の転換点はバブルが頂点に達した1989年であろう。奇しくも1989年は、宮崎勤が逮捕され、「おたく」というコトバが、ジャーナリズムに取り上げられる対象となった年でもある。関連業界でも、90年代初頭には、一人のマニアに観賞用・コレクション用と複数のパッケージソフトを売りまくる「おたくマーケティング」ということがば使われはじめていた。ちなみに、このコトバは最初、谷山浩子さんのファン数とCDの売上のアンマッチングに対して使われたものである。

終わりはさておき、重要なのはその発端である。1975年。その時代を知らない若者は、「70年代」と一くくりにしてしまいがちだが、この75年というのは、なかなか意味がある年である。当時は、今ほど社会が「情報化」していなかったため、世の中が均質化していなかった。いろいろなカタチで落差があり、あるムーブメントが社会全体に行き渡るには、それなりの時間がかかった。そして、75年というのは、1960年代的なものが一掃された時期なのだ。

1970年というと、70年安保の年であるとともに、沖縄返還前の闘争などもあり、「昭和の記録」みたいなムックを読むと、大学キャンパスは学生運動一色というイメージがある。確かに、反戦ストとか行われていたし、各セクトの立て看板が立ち並んでいたり(余談だが、この時代を知っている人なら、字体と用語からセクトを判別することができるはずだ)、濃い政治色に覆われていた。しかし、リアルな60年代とは違い、全ての学生が活動に関わっていたわけではない。

逆にこの時代では、すでに活動家のほうが少数派であった。確かに、地方出身の学生とかでは活動家も多かったが、都会出身の学生の多くは、すでに政治より自分の内面と向き合うことのほうを重視する生活を送っていた。世の中の正義や動きより、自分の好きなこと、楽しいことのほうを優先する。その典型が、この時期、多くの大学や高校で作られた「漫画研究会」である。漫画自体は、すでに60年代から大学生の必読書となっていたが、「漫研的」なるものは、単に漫画ファンというのとは違う。

その特徴は、自分の生きかたのリファレンスとして漫画を捉えることと、自らのポジションを漫画を送り出す側に位置づけるところにある。この「漫研的」なる生きかたは、実は政治的な生きかたに対するアンチテーゼとして出てきたものである。政治の対極としての漫画。今から考えると、なんとも幼い発想で滑稽でもあるが、あたかも活動家が政治に自分のアイデンティティーの旗印を立てたように、「次の世代」の萌芽を抱えた世代は、「漫画」に旗印を立てたのだ。

高度成長期までの日本においては、大人と子供の違いは歴然としていた。大人になるには、子供的価値感を脱ぎ捨て、大人的価値観を身に着けなくてはいけなかった。ある意味「政治」は大人の象徴であるが、「漫画」は子供の象徴であった。それを年齢的には大人になった人たち(当時、大学生は大人とみなされていた)がアイデンティティーの基盤に据えるというのは、結果的には強い政治的なメッセージを持つことにも繋がる。いわば、旧来の意味での「大人」になることを拒否する宣言でもあったのだ。

だからこそ、そのメッセージを主張する人々は、社会的にはマイノリティーに位置づけられることになる。社会全体として、大人と子供との垣根が取り払われ、関係性が曖昧になるのには、さらに10年以上、80年代まで待つ必要があった。ひらがな「おたく」の時代とは、そういう意味では、旧来の「大人的」価値観が残る中で、「子供的」価値観を主張することが、それなりに勇気とリスクを伴った行動だった時代ということもできる。

創成期の「コミケット」の様子を覚えている人ならわかると思うが、コミックマーケットは、トップダウンで誰かが始めたものではない。70年代初めから沸き起こってきた「漫研的」なるものが、必然的に生み出したものである。そもそも「漫研的」なる生きかたは、個人の内面のものである。それが、キャンパス内で「同好の士」を見つけた時、「一人じゃなかったんだ」という喜びとともに「漫画研究会」を起ちあげる。この「類友」効果が、各地の漫研を結びつけ、ボトムアップ的に生み出されたものなのだ。

個人の内面的問題だった「生きかた」が、大学の漫画研究会で「仲間うち」のものとなり、コミックマーケットが起ち上がることで、全国的なものとなったのだ。そういう意味で、「おたく」が社会現象化したエポックとなっている。それだけでなく、75年というのは、日本においては、映画やテレビ、スポーツや音楽などエンターテイメントの分野でも、大きな転換点となっている。それは、日本における「私」の時代の到来である。「おたく」の時代の到来も、その一貫ということができるだろう。


(09/01/23)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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