元祖「おたく」の時代(その3)





創成期の「おたく」が、「漫研的なるもの」をベースとし、カウンターカルチャーのメインストリームを行くかのごとき存在だったのが、80年代に入るとともに、なぜキモい人間の代名詞として揶揄されるようになったのか。その裏には、80年代に入ってから起こった、価値観の転換がある。これをもたらした要因としては、10代・20代の若者層での世代交代を挙げることができるだろう。

初期の「漫研的なるもの」を支えたのは、昭和20年代後半生まれ世代の中でも、都市型の環境の中で育った人々。この世代は、ポスト団塊世代であったがゆえに、世代論的にあまり着目されなかった。その多くは、「団塊世代に準じる世代」として一くくりにされていた。しかし、この世代を調査してみると、都会の核家族育ちのヒトたちを中心に、明らかに違う意識や価値観を持ったクラスタが存在する。

このクラスタは、ひとつ上の団塊世代より、その後の新人類世代に近い意識を持っていることが、定量調査により判明している。だからこそ、社会より個人を重視する生きかたを選んだのだ。しかし、彼ら・彼女らも、社会全体の動きから自由ではなかった。物心ついた時期は、まさに高度成長のまっただ中。ということは、豊かになりつつあったとしても、まだ決して豊かな社会ではなかった。その中では、旧来の価値観が根強く残っていたのだ。

一方、昭和30年代生まれの世代は、「もはや戦後ではない」中で育った。高度成長の恩恵を得た「豊かな社会」の中で育っただけでなく、学生運動が無意味であることを、端で見て、肌で感じて大人になった点が特徴である。団塊世代の破壊力はものスゴい。何も建設しない世代だが、彼ら、彼女らが通ってゆくだけで、焼き畑農業というか、ローラー作戦というか、「そこにあったもの」は、ことごとく踏み潰されてしまった。

何かと批判の対象にしかならない「団塊世代」だが、少なくともこの「破壊力」だけは、歴史的な存在感として評価されるだろう。それが、全てを壊すだけ壊して行ったのだ。昭和30年代生まれの世代がハイティーンになるまでには、戦前からの旧来の陋習は一掃されていた。青春の生きかたという意味では、主のいない、無限の荒野がそこにあった。まさに、価値観や意識においては、ここが「戦後の焼け跡」である。

そういう意味では、我々の世代は極めてラッキーであった。自分達の価値観を守るため、二重三重の守りを固めた砦の中に篭城する必要性はなかった。上の世代とは違い、自分の心の中に攻めてくる敵など、どこにもいなかったのだから。こういう意識がマジョリティーになっているのが、「新人類世代」の特徴である。そして80年代に入ると、この世代が急速に社会人となり、かつて大人と呼ばれた年齢に達する。

なんの抵抗にもあわず、なんの衒いもなく、自分の内なる価値観にしたがって人生を選べる人々。自分の内面に素直でいれば、けっきょくは、みんながみんなマイノリティーである。内面が同じヒトは、二人といないからだ。生きかたを突き詰めていけば、一人一人バラバラになってしまう。誰かとつながれるギリギリのところで自己主張を収めたとしても、仲間がそんなにいるワケではない。

時代は、タコ壷が並存する社会になっていく。80年代を振り返れば、ホモセクシュアルとかトランスジェンダーといった生きかたも、個人の選択の範囲として、尊重され認められるようになった。社会的な正しさを押し付けたり、それに過剰適応したりする世の中ではなくなってゆくプロセスが、80年代である。

そういう「自然流」の価値観からすると、自分の好きなことをするのに、理屈での正当化を必要とする「漫研的なるもの」は、違和感の塊であった。そして、それを声高に主張するヒトたちは、「変なヒト」と思われても仕方ない状況になっていた。そういう状況を反映し、コミケットは、「漫研的なる人々」の手を離れ、同人の発表の場から、祭的な「場」としてのコミケへの一歩を踏み出し、「場」に参加したいあらゆる人たちを飲み込んで、自己増殖的に巨大化をはじめた。


(09/02/06)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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