元祖「おたく」の時代(その5)





さて、「アイドル」もまた、ひらがな「おたく」を語る上では、不可欠な存在である。そんな80年代のアイドルを語る上では、その一世代前の。70年代的なアイドルから見てゆく必要がある。この両者は、同じ「アイドル」というコトバでくくられるものの、その内容には大きな違いがある。もちろん共通点もあるからこそ、同じコトバでくくられるワケだが、この共通点と相違点を知ることが、「おたく」を知る上では重要になる。

70年代的なアイドルは、あくまでも「大衆的熱気」の中から、マスというヴォリュームゾーンに支持されて生まれてきたところに特徴がある。1950年代、1960年代からあった、芸能界のスターシステムの、ひとつの到達点ということができる。芸能界のスターは、高度成長期前には、下流でお金もないけど、熱気だけはある若者たちが、熱烈に支持した。高度成長期とともに、みんなが豊かになるとともに、階級差も減少し、そこそこお金を持つ若者が、誰でも分け隔てなく支持するモノとなった。

そのモデルで最も成功した例は、天地真理・小柳ルミ子・南沙織という、1970年代前半の「新三人娘」であろう。その存在感にしても、登場した経緯にしても、それまで培ってきた「芸能界」的な方法論を完全に踏襲して成功した。ある意味、芸能界的なものの頂点ということができるだろう。1970年代後半には「中三トリオ」が、その後を受けて人気を集めた。ここでは、すでに構造変化が見てとれる。

そもそも中三トリオは、大手芸能プロダクションに対するアンチテーゼとしてテレビ局が仕掛けた、スター誕生というタレントスカウト番組から登場した。ここからして、それまでのスターシステムとは異なる構造を持っている。しかしこの時代はまだ、「芸能界」という仕組み自体は生きていたので、スターになるプロセスは、既存のタレントのそれと同じであった。そういう意味では、過渡期のアイドルとも言える。

その二重性は、3人のスターになるプロセスからも見てとれる。当初、既存の芸能界が期待していたのは、3人の中では森昌子、桜田淳子であり、山口百恵ではない。それは、前二者については、スター誕生を仕切っていた阿久悠氏が自ら作詞・プロデュースをしている一方で、百恵に対するコミットメントは低かったことからもわかる。もちろん、百恵が大スターになったのは、プロデュースしたスタッフの力も大きいが、アイドルは「ファンの支持から創発的に生まれてくるもの」という、新しいスキームの萌芽がそこにある。

これが決定的になったのは、70年代末期に登場したキャンディーズのブームであろう。キャンディーズは、所属こそ、渡辺プロダクションという大手タレントプロダクションながら、メジャーな人気が出たのは、プロダクションの戦略的方向性というよりは、ファンの支持である。キャンディーズ以降、アイドルとは、既成のタレントにファンが群がるスタイルから、ファン一人一人が支持し、自ら盛り上げてゆくことにより「創られてゆく」ものとなった。

これ以降登場する80年代型アイドルは、業界がトップダウンで作るものではなく、タレント当人とファンとが、ボトムアップ的に作ってゆくものとなる。この主体的参加性こそが、ひらがな「おたく」的なコミットメントなのだ。その前提として、日本の「芸能界」も、日本社会の変化の影響を受けて、いろいろな意味で変化していたことがあげられる。特に、プロダクションや放送局、イベンターといった、スタッフ・業界人の側での変化が同時進行的に進んだことも大きい。

それまでの歌謡曲的な芸能界と、フォーク・ニューミュージック以降の芸能界の違いとしては、なにより、プロとアマの差がなくなってしまったことが大きい。タレントサイドでも、フォークブーム以降、プロとハイアマチュア・セミプロの差がなくなり、両者は連続的な存在となった。同様にスタッフサイドでも、自主興行をやっていた人たちが、そのままプロのイベンターになる例が増えてきた。もっとも、送り手と受け手の差がなくなる傾向は、この時代芸能界だけでなく、あらゆる商品やサービスで見られたことである。

豊かで安定した80年代に入ると、商売をする側が、顧客サイドのニーズを無視できなくなってきた。人々がまだ貧しく、モノに飢えていた高度成長期のように、ただ作りさえすれば売れる時代は終わり、消費者の心をつかまなくては商売にならなくなってきたのだ。マーケティングのコトバを用いれば、プロダクトアウトからマーケットインへ変化した、ということになる。あらゆる商品やサービスが、マーケットインという波に取り込まれ、変化した時代なのだ。

この結果、対応できる人材が企業内にいた領域ならいざしらず、新しく起こってきた領域の多くでは、ソフト的なアイディアも含めて、顧客サイドに任せてしまおうという風潮が強まった。80年代という時代が「おたく」にとって幸せだったのは、このように、既存社会の側が、「おたく」的なものにそれなりの市場性をみとめ、それなりの「居場所」を作ってもらえたことである。カウンターカルチャーだったものが、市場に取り込まれたのは、この時代に特徴的な現象といえる。

確かに、ここで例示したパソコンにしろアイドルにしろ、社会のメインストリームからすれば、カウンターカルチャーでありオルタナティブではあったが、「多品種少量」「十人十色」という文脈の中で、マーケティングに取り込まれてきた。それとともに、消費者サイドにおいても、構造的にマスとニッチが分けられるものではなくなり、一旦火がつきさえすれば、マニアックと思われていたものでも、充分マスマーケット化する可能性を持つようになった。

この時代においては、消費者の嗜好の中では、大量生産・大量消費がくずれはじめたにもかかわらず、社会の情報化の進展がまだ充分ではなったため、生産・流通をはじめとした、いわゆる「バリューチェーン」全体での多品種少量生産への最適化は不可能であった。したがって、次善の策として、ピンポイント的にタコ壷を狙うことで、多様化したニーズに応えることが精一杯であった。これが、80年代的なマーケティングの特徴である。

それゆえ、その後情報化が進んでバリューチェーンの最適化が可能となるとともに、コアなニーズであっても、ヴォリュームが拡大する可能性があるモノに対しては、即座に生産を拡大しマス化することができるようになった。言いかたを変えれば、全てニッチでスタートした中から、アタりそうなものを見切り、それにリソースを集中するコトができるようになるとともに、いわば、全てがニッチであり、全てがマスである可能性を生み出した。

これは同時に、メインストリームとカウンターカルチャーが異質であるゆえに存在していた、「おたく」文化の存在基盤を解体するとともに、いかにマニアックなテイストを持っていても、構造的にマイナーなものではなく、機会さえマッチすれば、メジャーなヒットともなり得るようになった。このような市場構造の変化が、マニアックであっても同時にマス消費者である、純粋消費者としてのカタカナ「オタク」の時代を生み出したということができるのだ。


(09/02/20)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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