幸せのカタチ





産業社会がはじまって、200年。現在生きているヒトたちが、近代産業社会しか知らないのは当然としても、いろいろな習慣や価値観、ルールやタブーなども含めて、産業社会的価値観にオプティマイズされていないものはないのが、現代社会である。その一方で、産業社会的スキームは、もはや破綻してしまった。かくして、自分達の持っている知識も経験も、なにも通用しない状態に突如投げ出されているのが、今の世界の状況だ。

「未曾有の危機」なのは、実は混迷した経済ではない。地図もコンパスも持たずに、人跡未踏のエリアに投げ込まれてしまったような、今の人類の置かれた状況のほうなのだ。その典型的な例が、右肩上がりのジレンマである。地球という存在も、そこにある資源も有限だ。スケールは違うが、太陽のエネルギーとて、太陽の質量が全てエネルギー化するまでの、有限のモノでしかない。そんな中では、永遠の成長など実現できるワケがない。

それをベースにした価値観である、「より大きいことが幸せ」「お金を多く持っているほうが幸せ」という幸せ感は、あくまでも、近代産業社会だけに通用する、極めて特有なモノであった。今必要とされているのは、産業社会的な「幸せのカタチ」からの脱却である。人類の歴史を見てみれば、その特異性はすぐわかる。長い歴史の中では、時代ごと、地域ごとに、もっといろいろな価値観があった。

たとえば、「変わらないほうが幸せ」という価値観もあった。社会がバッドサイクルに入ってしまえば、変わらない日常を送れるだけでも、すばらしい幸せということになる。戦争状態になって、いつ命を失うかわからない状態など、その際たるものだろう。そういう状態の下では、「今日も一日、また生きていられた」というだけで、なにものにも代えがたい幸せを味わえることになる。

また、現世の幸せより、来世の幸せを重視する考えかたも、世界的には広く見られる。そもそも宗教が生まれた要因自体が、辛い現世で我慢すれば、幸せな来世がまっている、とでも考えなければ、とても生きてゆけないような環境の地域や時代が多かったからに他ならない。特に、アブラハムの宗教と呼ばれる一神教の系譜が、全て環境の厳しい中東で生まれたというのは、それなりに理由があるのである。

ヨーロッパにおいても、古代のアニミズム的な信仰に代わって、中世以降キリスト教が広まったのも、当時としては逆の意味で生活に厳しい環境だったことが関係しているだろう。そういう意味では、現世御利益志向が強い地域のほうが、世界的には特別なのだ。それは、ほとんど中国を中心とする東アジアに限られる。これは、この地域が農業生産性が高い気候であるとともに、環境的にも生活しやすいエリアだった影響である。

今求められているのも、こういう価値観なのだ。ある意味、現世の御利益に極度に特化した価値基準が、「金に換算」する方法であろう。だが、そんなものは、皆が皆、欲に目がくらみ、より多くの金を得ようと競い合うことしか生み出さない。発想を転換し、皆が、金があることが幸せと思わなくなり、がめつく溜め込んだ金の多寡を競わなくなれば、金がいくらあるかなど、たちまち無意味なモノとなってしまう。

ここは、人類の原点に戻るべきである。苦しくても、ストイックに生きれば、来世では必ず救われる。みんなが、こういう生き方を選ぶようにならない限り、21世紀的なサステナビリティーはあり得ない。人々が、このような宗教心を持つためには、大前提がある。それは「現世が苦しいモノ」であることだ。昨今の状況を見ていると、皮肉なことにもこの条件はクリアできてしまいそうではないか。まさに、神の見えざる手が働いている、ということだろうか。


(09/03/20)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる