子供たちの今





スポーツにおいては、野球やサッカーをはじめとして、このところ世界に通用するような選手が続出している。この事実からもわかるように、トップレベルのプロに関して言えば、小さい頃からの英才教育の徹底ともあいまって、その質・量とも、過去に比べて上昇こそすれ、下落してはいない。その一方で、1990年代以来、少年層での一般的なスポーツ人口は、減少の一途をたどっている。この結果、異質なモノを拒む傾向の強い団塊Jr.層では、スポーツに打ち込む子供は、変人扱いされていたぐらいである。

小学生で野球をするのはリトルリーグの選手、サッカーをするのは少年サッカーチームの選手だけであり、普通の子供が草野球や草サッカーで遊ぶという機会は、ほとんどなくなった。「選手」はいるし、盛んに活動しているが、その周辺の裾野がないのだ。かつては男のコなら誰もがグローブぐらい持っていたコトからもわかるように、それなりの市場規模をもっていた「アマチュアスポーツ用品」の市場は壊滅し、スポーツ用品とは、プロ・セミプロ用品だけのものとなった。

ここで重要なのが、親の影響である。今やほとんどのスポーツにおいて、大活躍をしている若手選手は、親もそれなりに活躍していた選手やスポーツ関係者であることが多く、小さい頃から、いわば「専属コーチ」として、熱心に指導してきた結果が、成績に繋がっている。逆に言えば、そういう環境以外のところからは、桁外れの才能を持った選手でもない限り、とても頭角を表すことができない。このレベル差が、一般のアマチュアに二の足を踏ませているコトも確かだ。

この傾向が先行して現れたのはスポーツの領域だが、趣味・ホビー関連でも、続いてほぼ同様の傾向が現れてきた。音楽などはその典型であり、BGMとして音楽を聴き流すニーズは若者の誰でも持っているが、鑑賞するように聴き込めるのは、一部の音楽マニアだけになってしまった。ましてや、自分で音楽をプレイしようというのは、相当な好きモノに限られる。こういうマニアや好きモノが育つのは、親自身が、音楽マニアだったり、自分で楽器をプレイしたりする場合がほとんどである。

こうなると、自分で好きなアルバムを買い集めてコレクションしなくても、親がマニアゆえ、家にはかなりのCDコレクションがすでにあることになる。同様に、親がピアノを奏いているのを聴いて、自分も奏きたくなったのなら、家にはすでにピアノがあるワケである。これでは、アルバムは新規には売れないし、入門用の楽器も必要なくなってしまう。実際、パッケージソフトの不振や、楽器市場の衰退の裏には、「すでに家にあるので、新たに必要ない」という構造的問題が控えている。

これらは、やる側・する側といった、能動的、積極的にコミットしようという子供たちに見られた問題であったが、この数年、似たような問題が、見る側・観客の側にも現れるようになった。昨今、子供たちの漫画離れ・アニメ離れが顕著になってきた。コミック雑誌の売上は低迷し、雑誌業界の不景気の要因となっている。アニメの製作本数こそ多いモノの、80年代のように、高視聴率の人気番組となることは難しくなった。ティーンズ以下の子供層では、漫画ファン、アニメファンの数は、確実に減っている。

もちろん、世界に冠たる「オタク」達の購買力があるので、マニアックな作品は、それなりに売上を稼げるし、それによりいろいろ構造的問題はあるものの、なんとかマーケットが回っているコトも確かだ。しかし、それは深く狭いマーケットであり、かつてのような浅く広いマーケットではない。かつて、日本で漫画・アニメが独自の文化となったのは、広く浅く巨大なマーケットがあったからだ。その上でこそ、マニアックな部分も成り立つのだ。

問題は、この原因が、子供たちの「ストーリーに対するリテラシーの低下」である点だ。最近の小学生では、複雑なコマ割りの漫画だと、ストーリーが追えなくなってしまう子供が結構いる。同様に、アニメでも実写でもいいが、伏線があったり、複数の筋書きが同時進行したりという作品では、話の流れがわからなくなってしまう子供も多い。さらには、一つのハナシに集中できるのは、5分〜10分が限度であり、それ以上はじっと見ていられなくなる傾向も強い。

これでは、幼児でもわかるアニメならイザ知らず、ストーリーのしっかりした「文芸的」なアニメを見れるワケがない。それができない以上、コンテンツの鑑賞に金を支出する可能性などあり得ない。実は、日本の漫画・アニメ文化は、クールジャパンどころではなく、ビジネス的に「風前のともし火」なのだ。まあ、ストーリーへの集中力のなさは、本質的な問題なのでフォローしようがないが、リテラシーは教育でフォローできる。漫画・アニメ文化の振興を図りたいなら、大事なのはこの点である。

前回も述べたように、コンテンツ市場で大事なのは、お金を支出する消費者の存在である。クリエイターは、著作権の人格権ではないが、ある種「内なる創作意欲」で動かされる人たちなので、作品自体は市場があろうがなかろうがクリエイトされる。それがビジネスになるかどうかは、買う側がそれに楽しみ・喜びを感じ、お金を出してくれるかどうかにかかっている。本当にコンテンツ立国を考えているのなら、コンテンツを味わえるようなリテラシーと、コンテンツにお金を出すマインドを教育すべきだろう。


(09/04/10)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる