井の中の蛙





「甘え・無責任」なヒトたちは、既存の制度やシステムを前提とし、そこに「寄らば大樹の陰」としてぶら下がりたがるのが特徴である。これは視点を変えれば、ぶら下がれる既存の制度やシステムが確固としたものでなくては、甘い汁は吸えないということでもある。したがって、一旦既得権にはまり込んでしまうと、こういうヒトたちは、きわめて現状肯定的になる。確立した「定説」と違うやり方は考えないし、考えたくもないというワケだ。

一方で、「自立・自己責任」なヒトたちがいる。こういうヒトたちは、エスタブリッシュされた現状の制度やシステムに対しても、それを絶対的なものとして捉えることはない。現実のいいところ、わるいところ、それぞれを客観的に見て、クールな立場を貫いている。是々非々的というか、使えるものは肯定するが、都合の悪いもの、勝手の悪いものは否定し、よりよいモノを自ら創り出そうとする。

現状に対するこの見方の違いが、同じ状況に関して、全く違う認識を生む。「甘え・無責任」なヒトの、現状肯定的な視座からは、現状の問題点が全く見えない。これは、良いとか悪いとかいう非難の対象ではない。そもそも、全く見えないのだ。昔、赤と緑の二色メガネを使った立体映像があったが、あの原理と同じで、。赤色のレンズを通すと、赤い線は見えなくなるようなものだ。見えないものを見ないからといって、非難することはできないではないか。

問題は、そういう世の中現象の一面しか見ることが出来ない人たちが存在していること、そして、どうやら日本では、そういうヒトたちのほうが数が多いということを、キチンと理解できるかどうかにある。「自立・自己責任」なヒトたちが、いくら正しいと信じることを主張し、啓発しても、世の中の共感を得ることができない理由はここにある。大事なのは、そういうヒトたちを変えることではなく、どうすれば共存できるかということなのだ。

寄生生物は、宿主がいなくては生きてゆけない。だから、多少宿主に迷惑をかけることはあっても、宿主の個体を殺してしまったり、その種を絶滅させたりするようなことはしない。それは、自分自身の死を意味するからだ。ヒントはここにある。「甘え・無責任」でいられるのも、寄れる「大樹」があってのことだ。彼らから見えている利権構造や世界観がキープされるなら、見えていない部分がどうなっているかには関心はない。

彼らからも見える、いわば「緑の線」の部分はなるべくイジらない一方、彼らからは見えない「赤の線」でもう一つのパラレルワールドを築き上げる。いってみれば、官庁の許認可権はそのまま置いておいても、その拘束を受けない領域を作って、そっちで勝手にやればいい、ということだ。実際にスタートすれば、そちらの市場のほうが圧倒的に成長性を持っているので、実質的には許認可権は意味を成さなくなる。そうなれば、もはや伝統芸能みたいなものだ。

かといって、その時点で守旧派が反撃できるワケもない。敵陣にいる敵に反撃するには、「自立」してることが前提となる。一度「甘え・無責任」にハマったからには、二度と自分の道を探して、自分の足で生きてゆくことができない。ヌクヌクとしたコタツの中から這い出して反撃するような、勇気も能力もない。簡単なようで、手練手管に浸ってしまったヒトには難しい所業なのだ。既得権に流れる金がそれなりに続けば、共存は可能なのだ。金が続かなくなったら、それこそ金の切れ目が縁の切れ目ではあるが。

シュンペーターの企業家精神やクリエイティビティーの源泉は、あるがままを、あるがままに見れるコトにある。それはまた、あるがままを、あるがままに見れるヒトは、定説にしたがってしかモノを見れないヒトとは違う可能性を持っているコトを意味する。住む世界が違えば、棲み分けはいくらでも可能だ。近代産業社会的な価値観をベースに、既得権益を守りたいヒトは、どうぞご自由に。井の中の蛙というのは、それはそれで幸せな生きかたかもしれないから。


(09/04/10)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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