21世紀の「景色」





バブル絶頂期だった、1989年〜91年。あれからもう、20年になる。今年当たりは、不景気ということもあり、バブル20周年企画でノスタルジックに回顧する企画が林立しそうな気もする。何かが変わったようにで、何も変わらない20年ではあるが、この20年という歳月を経て、ようやく見えてきたものの一つに、日本における「ポストモダン」の真の意味をあげることができる。

それは、ポストモダンがブームとなり盛んに議論されていた80年代においては、あまりに渦中にどっぷり浸っていたがゆえに、見えていなかった部分である。というより、当時はまだ近代産業社会のスキームが生きていたので、その部分を否定できなかったというほうが正確かもしれない。いずれにしろ、当時は誰も考えなかったところに、日本社会は来てしまった。

まあ、21世紀の社会は、19世紀・20世紀の世界を支えていた「近代産業社会的なモノ」の否定になる、というところは当っていたといえる。問題は、否定されたあとに生まれる社会のあり方である。当時考えられていたのは、「超近代」というか、近代産業社会のテーゼを、否定しながら内包する、キリスト教とイスラム教のような関係であった。

しかし、フタを開けてみたら、あにはからず。21世紀的な日本社会とは、西欧文明に対する、土着的なカルチャーの勝利だったのだ。経済発展が止まったとき、近代産業社会の虚構も止まってしまった。そして、19世紀以来の「輸入文化」のメッキがはがれた後に出てきたのは、それまで千数百年以上培ってきた、日本伝来の「ノリ」であった。それほどまでに、日本の文化的伝統は堅牢だったのだ。

もっとも、80年代のポストモダン論を担ったのは、アカデミックな議論がお好きなインテリ・エリートである。彼らにとって土着文化の再生は、自らのアイデンティティーを否定するコトにも繋がるだけに、そういう可能性を思い浮かべても、決して主張するにはいたらなかった、という面もあるだろう。当時のポストモダン論は、それ自体が欧米からの輸入モノであったことを忘れてはならない。

さて、土着文化とは、具体的には母系性共同体の再構築として捉えることができる。母→娘→孫娘と、ミトコンドリアDNAとともに脈々と継承される絆こそ、日本の農村共同体の基盤となっていたものである。20世紀後半の経済成長の中、核家族化など一旦は崩壊したように見えたこの伝統は、経済成長の破綻とともに、見事に復活した。その裏には、団塊世代-団塊Jr.世代-団塊孫世代という、団塊系列の「数」の勝利があった。

いわば、バブル崩壊以降の経済の混乱に乗じて、団塊系列の人々が求めてやまなかった共同体の再構築を、見事にヤリとげてしまったのだ。もちろん、この人たちも、20世紀に生まれ育っただけに、近代産業社会で生まれた要素も、受け継ぎ、引き継がいではいる。しかし、それらがことごとく換骨奪胎されているところが特徴なのだ。

「マス」が、メディアやオピニオンリーダーに踊らされる「フォロワー」ではなく、自分の嗜好を基準に商品やサービスを選ぶ「主体的な消費者」になっている傾向は、すでに80年代から、先進的なマーケッターの間では常識となっていた。しかし、問題はその「嗜好」である。当時は、社会全体として「嗜好」がどんどん先端的になってゆくモノと想定していた。

しかし、その「上昇志向」は、あくまでも経済成長あってのモノだった。バブル崩壊以降「経済縮小傾向」が強まる中で、社会の情報化が進む中で起こったことは、あるがまま、思うがままに行動しも何も問題がない、ということだった。気がつけば、自分と似たホンネを持っている人は、あちこちにいる。これがわかったとたん、近代産業社会の呪縛は一気に消え去った。

画一化され、都市化された日本のローカル社会を、三浦展氏は「ファスト風土化」と呼んだ。事実認識としてはその通りだと思うが、問題はその中身の捉え方である。80年代以降の「日本の大衆」は、自分が好きなこと、楽しいこと、という基準でしか行動をしない。全国的に「ファスト風土」が広まったということは、全国津々浦々、それが好きで楽しいと思う人々であふれていることを意味する。

ここで重要なのは、ファストフードも、コンビニも、ファミレスも、大型ショッピングセンターも、最初に登場したときのアメリカ伝来の仕組みではなく、普及した時点で日本の土着的ウィルスに感染し、土着化した仕組みになっているところだ。形式こそグローバル的だが、中身が土着化したからこそ、地方でもヒットするモノとなっている。日本のローカル文化は、カタチこそ失われたかもしれないが、ココロは生きつづけているのだ。

まさに、21世紀の日本社会とは、都市部の一部にある無国籍的な生活空間を除き、全ての要素が土着化ウィルスに感染してしまった状態なのだ。この安定的環境があってこそ、ちっちゃな幸せがあって、それが保たれればいいと思えるワケだし、公然と現状肯定的にまったりとした生活を求めることになる。「クールジャパン」がクールなのも、ハイテクで先端的だからではなく、この「土着性」がエキゾチックだからこそもたらされることを忘れてはならない。


(09/04/10)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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