踊らない人たち





高度成長の恩恵が津々浦々にまで広がる以前の、20世紀中庸までの日本においては、庶民は基本的には貧しかった。とにかく、命をつなぎ、生きるためには、かなりの努力が必要だった時代だった。貧しい。喰えない。がんばらないと、命さえ危ない。生の自転車操業というか、生きていることは、即、常に走り続けていることに他ならなかった。

何かに向かって努力することは、さらに一段上を目指すことでもある。たとえそれが「生きる」というプリミティブなものであったとしても、生きることのほうが、命脈が尽きてしまうより「一段上」と認識されているからこそのことだ。上を目指さなくては、生きてゆけない。名作「くもの糸」ではないが、この時代の日本人は、すきあらば這い上がろう、他人を踏み台にしても這い上がろうと常に考えていた。

貧しくて食うや食わずの状況から、何とか抜け出したい、抜け出さなければ生きてゆけない。そのためには、誰かを蹴落としても上に立ちたい。これが、貧者のモチベーションである。ある種、この意識が生みだすバイタリティーには、ものスゴいモノがある。だからこそ、ここから内実以上に上を装う「見栄」が生まれることになる。また、その逆にいくら努力しても這い上がれないことから「コンプレックス」も生まれる。

このように、貧しい世の中では、格好をつけたがるヤツも多い。「貧すれば鈍する」というヤツだ。どうせ叶わないなら、表面ヅラだけでも取り繕いたい。周りがバカばかりで、どんぐりの背比べなら、そんなブラフが効くかもしれない。そんなこんなで、格好のつけ合い、見栄の張り合いになる。しかし、格好をつけるのも、実はけっこう疲れる。もともと実体がないだけに、内面のむなしさは人一倍である。

貧しい時代の人々は、この外面と心理の相克に悩みつつも、一旦ハマってしまった自転車操業からは抜け出せないまま苦しむことになる。しかし、経済発展があるレベルに達し、社会インフラが充実し、経済が安定成長になると、パラダイムシフトが起きる。生きていくだけなら、それほど苦労もいらず、困らない時代がきたのである。これとともに、大衆の意識に変化が起きる。

見栄を張ったり、格好をつけたりするのに疲れ、辟易していた人々は、豊かな時代の到来とともに、一抜け、二抜けし、チキンレースから降りてしまうようになった。これがバブル崩壊以降の日本社会の基調となった。かつての大衆社会には、オピニオンリーダーという存在があった。オピニオンリーダーとは、まさに、見栄や格好つけのためのリファレンスを提供する存在であった。

オピニオンリーダーの衣を借りることで、目クソ鼻クソでしかない大衆の間で、「オレはオマエより上なんだ」と見栄を張れる。逆に見栄を張られたほうが、本質は全く変わらないにもかかわらず、劣等感・コンプレックスにさいなまれる。そのベースは、「日常からレベルアップしたい」という上昇志向である。したがって、オピニオンリーダーとフォロワーがあり、大衆がフォロワーだった時代は、常に現状に対する不満が渦巻いていたといえる。

しかし、豊かな時代になると、大衆は現状に満足するようになる。同時に上昇志向はなくなり、オピニオンリーダーは不要になる。インテリ・エリートが何を言おうと、大衆は己の欲するものしか欲しない。これによって、世の中で「正しい」と認識される基準が、オピニオンリーダーの意見により決められるのではなく、現状に満足している大衆自身が選んだ結果により、創発的に決まってくるようになる。

少数のオピニオンリーダーの意見ではなく、実際に多数を占める意見が、世の中のトレンドを作る。ある意味で、きわめて「民主的」な社会が実現したのが、90年代以降のトレンドである。かつての大衆が、現状に不満を持ちながら「上」を見ていたのに対し、今の大衆は、現状に満足しながら、相互に「横」を見ている。まさに、「まったりとした生活」である。

みんな無理して格好つけることはなくなる。楽で楽しいほうを、素直に選ぶようになる。このようになると、「1.敷居が低いほうを選ぶ」「2.金がかからないほうを選ぶ」「3.簡単にヒマが潰れるほうを選ぶ」のが、マストレンドの基調となる。いろいろな意味でレベルの低い(=下流)な人々が、現状の自分に自信を持ってしまう。そして、そういうヒトたちが多数を占めている状態。それが、21世紀の日本の大衆社会である。

他人がなんと叫ぼうと、本人が現状に幸せを感じている以上、もはや動かない。もはやエントロピーは極大。そして、みんな何も失うモノがない。これを最強といわずして、何といえようか。負ける理由がないではないか。民主主義が、最大多数の最大幸福を是としている以上、より多くの人が幸せを感じる「大衆化」こそが正しいコトであり、「良識」や「正義」をいくらふりかざしたところで、それは特殊権益を持つ少数の利益でしかない。

海外旅行が高嶺の花だった時代、国際線の飛行機の中には、ハイブロウな雰囲気があった。同じく、モータリゼーション開花前の高速道路のサービスエリアも、駅前のマーケットとは一風違った空気が流れていた。しかし、海外旅行も自家用車も当たり前になってしまった昭和50年代以降、国際線の旅客機も、高速道路のサービスエリアも、温泉場の観光地や地方のショッピングセンターと何ら変わらないノリの世界になってしまった。

大衆化とは、そういうことなのだ。それは、高度成長期に信じられていたように、「大衆がレベルアップするの」ではない。ベタな大衆が、現状に自信を持ち、「今のままで充分」とおもうことにより、「大衆スタンダード」がそのまま「社会スタンダード」になることである。もはや、日本社会はこの段階に到達してしまっている。現状に対して、好き嫌いをいうことはかまわないが、嫌いだからといって否定できるものではない。それをはきちがえると、その先にはしっぺ返ししか待っていないのだ。


(09/05/15)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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