本末転倒





民主党の代表選挙があったので、ちょっと中休みという観もあるが、総選挙をめぐる自民党と民主党の駆け引きの中で、このところ「議員の世襲」の問題が話題となっていた。今の国会議員をはじめとする政治家は、親の代、祖父母の代から政治と関わっていた家柄の出身者が多く、これを問題視して、いかに対応策を考えるかという議論である。

2世議員、3世議員とはいっても、個々人の資質は千差万別である。これは議員に限らないが、有名人の息子に対しては、能力が高ければ、「さすがに○○さんの子供だけのことはある」と言われるだろうし、能力が低ければ「親に似ず不憫なヤツ」と言われるだろう。要は、話題にされやすいのは確かだが、その「出来」は、個人次第ということである。

それを十羽一からげに「世襲」と一言で片付けてしまうのもどうかと思うが、それ以上に、この議論は本質的な問題をはらんでいる。世襲だろうと、2世だろうと3世だろうと、議員になるためには、その出自とは関係なく、選挙で選ばれなくてはいけない。「世襲」議員ではあっても、議員である以上、有権者から選ばれた選良なのだ。この議論には、この視点が欠けている。

一般に「世襲」というと、こういうプロセスを経ず、前任者が一存で後任を決められるポジションにおいて、親族で禅譲しあうイメージを考えがちた。確かに、そういう決め方をするポジションにおいては、アカウンタビリティーが充分担保されない場合もある。その際たるものは、親子とかの血縁関係ではないが、代々「事務次官経験者指定席」となっているような、天下りポジションが上げられるだろう。

この問題点は、「誰がなるか」ではない。後任者決定のプロセスがブラックボックスになっており、恣意的に決定されてしまうところが問題なのだ。特定少数の利権化しているからこそ、オープンにしたくない。自分達のおいしい特権として、なるべくキープしておきたい。だからこそ、秘密裏に後任を決め、仲間内でたらいまわしして、新参者を入れないようにする。

これは少なくとも、プロセスがオープンであれば、問題とはならない。たとえば会社の取締役は、株主総会で選任されなくてはならない以上、オーナー企業でも株式公開していれば、ブラックボックスにはできない。そして、プロセスが公開されれば、選んだ側の責任が発生する。こうやって社長の座を世襲したとしても、それは株主の承認を得た上で行ったものということができる。決して恣意的に行えるものではない。

ましてや、議員は選挙の洗礼を受けている。世界的にみても、日本は民主的な国家として国際社会で認められているし、選挙の公正さでも、世界有数のレベルに達していることは論を待たない。だとするならば、たとえ2世でも3世でも、有権者が議員にふさわしいとして選んだ人材に対し、適格性を問うのは、有権者の意志を踏みにじるとともに、民主主義を蹂躙するものである。

そもそも日本の二大政党は、「自由『民主』党」「『民主』党」と、その名前からして「民主主義」政党であることを主張している。そうであるとするならば、有権者の意志、選挙の結果に対して従順であるべきだ。政治家の親族が政治家になることが良いか悪いかは、政党が決めることではなく、選挙の結果として有権者に問うべき事柄である。

確かに「世襲」でない政治家志望者からすると、「世襲」が門戸を狭めているように見えるかもしれない。その意味で、「世襲廃止」に対して特殊な利害のある政治家も多いだろう。しかし、それを決めるのは政党ではない。あくまでも有権者の一票なのだ。こういう発想こそ、もし有権者が「世襲」を望んだとしても、その可能性を排除するという意味で、民主主義に対する暴挙ということが言えるだろう。全ては、選挙で決めるべきなのだ。


(09/05/22)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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