環境適応





高度成長を体験した世代が陥りやすい問題として、過去の成功体験にとらわれすぎる点がよく指摘される。自分の得意技が、あまりに強力で連戦連勝のキメ技となると、その威力が衰えはじめても、それに気付くのに遅れ、次の新しい技を開発するタイミングを逸してしまう。「過去の成功体験」の問題は、今まではそういう文脈で語られることが多かった。

確かに、経済の実態としては右肩上がりが基調となっていたバブル期まで、人々の意識という面でいえば97年の金融危機までなら、「過去の成功体験にとらわれる」ことの問題とは、そういう意味だったに違いない。それは、経済においては、より大きく、より強いことが善であり、競争に勝つこと、成長することが、社会的に共通の肯定的な価値観となっていたからである。

しかし、21世紀に入ってからの10年で、問題は大きく様変わりした。人々が成功、成長を求めていた時代は過ぎ去ってしまった。今や「過去の成功体験にとらわれる」ことの最大の問題は、量であろうと質であろうと、拡大することが善であり目的であるという発想から抜け出られなくなってしまうことなのだ。言い換えれば、産業社会で成功したものは、産業社会的発想から抜け出せなくなってしまうということである。

昨年から、世界的な経済危機が続き、有史以来の未曾有の不況などと喧伝されている。とはいえ、さすがに一年近く経つと、業種ではなく個々の企業にごとに、ダメージの度合いがかなり違うことに気付く。中には、こういう御時勢でも、最高益を更新する企業もある。この差を生み出すものこそ、産業社会的な発想にとらわれているか、そこから抜け出せたかという違いなのだ。

「産業社会」と「情報社会」の一番の違いはどこだろうか。それは、デファクトスタンダードとなっている「人のモデル」の違いだろう。「産業社会的な人々」と「情報社会的な人々」は、明らかに生きかたや生きざまが異なる。ここに気付いているかどうかが、「今の時代」をリアルに感じ取れるかどうかの境目となる。過去の成功、すなわち産業社会にオプティマイズしすぎたヒトほど、この「脱皮」が難しくなるのだ。

21世紀を生きる「情報社会的な人々」の特徴は、何よりも「経済は成長しないもの」と刷り込まれている点にある。銀行に預金したところで、利子はつかなくなってから20年近くなる。物価も上がらない代わりに、給料も上がらない時代が続いている。少なくとも日本においては、30代以下は、経済的に成長や発展を目指すこと自体を、体験として持っていないヒトたちばかりになった。

とはいえ、現状はそこそこ居心地がいい。社会的ストックは、高度成長の恩恵で極めて充実している一方、価格破壊のデフレ経済が浸透し、金がなくても、それなりの生活はできる。となれば、ぼんやりと何もしないで、まったり過ごすのがいちばんいい。果実や芋などがいくらでも生えている熱帯では、野生動物も怠惰な生活になる。居心地のいい環境では、意欲がないのは否定すべきものではない。それは環境適応なのだ。

今の日本は、意欲を持つ意味も、必要性もない世の中なのだ。それを受け入れることが、今の時代を生き抜くポイントになる。確かに今でも「意欲オタク」はいるし、そういう状況下でも、ストイックに自己修練に努めるヒトはいる。ただ、それが「常識」ではなくなったことは心に留める必要がある。意欲があるものは、絶対的少数者であり、それがマジョリティーになることはないのだ。

エコロジーだサステナビリティーだという前に、飽和した社会に生まれ育った人たちは、自然に成長や発展を求めなくなっている。生き物は、満腹になれば、それ以上食べたいというモチベーションを自動的に失うように出来ているのだ。人類も自然の一部である以上、環境適応能力が備わっている。まさに、神の見えざる手。「ニュータイプ」の価値観にあわせることこそ、人類が今後も生き延びてゆくための最適な手法なのだ。


(09/05/29)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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