リアル 2.0





かつて、コンピュータやネットワークが限られた人々だけのもので、誰もが持っている「ケ」の世界ではなかった頃、といってもたかだか十数年前のことだが、「リアル」な現実世界と「ヴァーチャル」なコンピュータ内の世界とを、対立的に捉える見方が流行っていた。まあ、今でもそういう視点から抜け出られないヒトも、まだけっこういるようではあるが。

その後、コンピュータやネットワークの大衆化が急速に進み、天のモノとも地のモノともつかない状態から、誰もが垣間見れる状況になると、こんどは「ヴァーチャルな世界の掟」が「リアルな世界の掟」と取って代わるという、とんでもない誤解が流布するようになった。これについては、そう思い込んでいるヒトもまだまだ多いようだ。だが、これは勘違いであった。

まあ、何でもそうだが、アーリーアダプターというのは、積極的・能動的なヒトが多く、いろいろな意味でマインドも高い。多数を占める「大衆」とは、意識も行動も違う。だから、初期ユーザーのコミュニティーは、一般社会の常識と違っていて当然なのだ。自動車の普及率が低かった頃の「オーナードライバー」とか、電話の普及率が低かった頃の個人契約者などの集団の特性が、一般大衆とズレているのと同じである。

さてここに至って、ベタな大衆こそがコンピュータやネットワークを、メインユーザーとして引っ張る時代がやってきた。それとともに、リアルとヴァーチャルとは対立的な概念ではなく、マスになってしまえば、どちらも差がないモノであることが明らかになった。この5年ほどで、これがわかっているヒトでなくては、ネットビジネスの成功はおぼつかない状況となっている。

では、リアルとヴァーチャルとが全く融合してしまったのかというと、そんなことはない。今までとは違ったところに、その境目が出来つつあるのだ。リアルとヴァーチャルの境目がなくなってから物心ついた人たちを中心に、それまでのような、現実とマシンの中という区別ではないカタチで、その境目を感じるヒトたちが現れてきた。いわば、リアル2.0である。

この人達にとって「リアル」なのは、自分が直接体験できる範囲だけである。その外側は、社会的、科学的が実態があろうがあるまいが関係なく「リアル」ではない。かつて「タンジブル」というコトバがハヤったことがあるが、その概念に近い。タンジブルなものが「リアル」、タンジブルでないものは、現実に存在していても「ヴァーチャル」なのだ。

この新しい基準の下では、それがウソでもホントでも、かつての基準でリアルでもヴァーチャルでも関係ない。自分の身近に実態があるものだけが「リアル」、その他の全てが「ヴァーチャル」なモノとなってしまう。その結果として、極端なハナシ、現実に存在するもの、起こっている現象であっても、自分に結びつかないモノは、フィクションの「お話」と同じなのだ。

昨今、若者のマスメディア情報の利用においては、それが正しいかどうかが問われることはなくなり、面白いかどうか、ネタになるかどうかだけが重要になっている。これも、情報が事実かどうかはどうでもよく、全て「ヴァーチャルなお話」として捉えていると考えるなら、大いに合点がゆく。起こっているのは、マスメディア離れではなく、「正しさ」離れでしかないのだ。

納豆のヤラセ事件、亀田選手の八百長事件等、マスメディアが伝える情報については、毎年のように議論が沸き起こる。しかし、これも「オールドリテラシー」しか持っていないヒトたちが、今の若い世代が感じている「現実感覚」について行けなくなって起こった問題である。全ての情報は、ネタである。良い悪いも、正しい間違いもない。自分にとって、そして自分の周囲の人間にとって面白いかどうかだけである。

つまらない、話題にならないガチンコの試合よりは、八百長でも面白い試合のほうを見たいのだ。同様に、本当に健康やダイエットに効果があろうがなかろうがそんなのはどうでもよく、みんなでワイワイいいながら争って買いあさりまくり、商品が店頭から消えてしまう「イベント感覚」こそが面白いのである。そして、自分もそこに参加するコトを楽しむ。もはやそこには、「効能」の入り込む余地はない。

こういう議論をすると、すぐに古臭い正義論を持ち出し、現実を「間違っている」とか「正すべきだ」とか批判する輩がいる。しかし、怒りをぶつけたところで、大衆が変わるワケではない。それは、大衆の意志というのは、なにか目的意識があり、それに向かって「理」の力で進んでゆくところから生まれるのではなく、みんな勝手にバラバラにやったことの結果でしかないからだ。

ここで大事なのは、情報化した社会においては、「タンジブル」かどうかだけが、唯一かつ絶対的な基準となるということだ。それさえわかっていれば、別に恐れることはない。「ジャーナリズム」はマスメディア足りえなくなるだろうが、限定されたターゲットだけを狙う「機関紙」になれば存続できる。逆に、みんなが好んでネタにできる情報を提供できれば、マスメディアは磐石である。今は、時代を見ていない「書生議論」をしているときではない。


(09/06/05)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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