米国的市場





クライスラー、GMと、かつての「Big3」が続々と経営破綻した。その分、先の見えなかった経済危機も、今後の展開が見えてきて、景気の底打ち感さえ出てきた今日この頃である。Big3の経営破綻については、経営学的な視点や技術論的な視点から、いろいろその理由が語られている。どれも、それなりに説得性はあるのだが、帯に短し、襷に長しという感じで、今ひとつ「すっきり感」がない。

それは、それらの説明では、1970年代以来の中長期的な凋落を説明し切れないからだ。なぜ、アメリカの自動車メーカーの作るクルマは、商品力・競争力を失ったのか。それを、消費者の側から説明できる視点、すなわちマーケティング的な分析がなくては、Big3の衰退を説明したことにはならない。実は、Big3に代表されるアメリカ的なマスマーケティング自体が、構造的問題を内包していたのだ。

アメリカの伝統的な消費者というのは、極めてコモディティー指向が強い。品質やデザインといった付加価値を重視し、ブランドものを選ぶヒトたちも、高所得層を中心にそれなりに存在するものの、数からすればマイノリティーである。また、大衆に対する影響力・波及力もあまりない。アメリカの大衆というのは、要は「使えればなんでもいい」「食えればなんでもいい」のだ。

ウォルマートのような大手スーパーチェーンの品揃えをみるとよくわかるのだが、日本などに比べると、商品のアイテム数が極端に少ない。これがアメリカのマス市場の特徴である。「あればそれでいいヒト」たちなので、経営の効率性は際立っている。この層をつかんでしまえば、スケールがデカいだけに、比較的容易にビジネスが成り立ってしまう。

しかし、それはアメリカ内部だけで成り立つ、極端に「ローカル」なマーケットになってしまう。それでも充分にビジネスになるところが、アメリカ市場のスケール感である。それに加えて、意外かもしれないが、グローバル的な発想をできる人は、アメリカ人では少数派である。大部分を占める大衆にとっては、世界=アメリカなのだ。

かくして、アメリカ国内でマスマーケットを押さえるためには、ローカルな部分最適を追求することが一番効率的ということになる。20世紀前半の世界のように、一義的には国内市場をベースにしている米国の生産力が余りに高く、他の諸国の追随が不可能な状況では、有無をいわせず「アメリカの生産のお余り」を分けてもらうしか手がなかった。

この状態では、「アメリカ仕様」の商品でも、世界から引く手あまたにならざるを得ない。この状態が、いわば「アメリカの成功体験」であり、その頂点といえるのが1950年代のゴールデンエイジである。しかし、世界的な消費社会化の進行により、ヨーロッパや日本でも大衆消費に支えられた大量生産に基づくマスマーケットが成立し始めた。

この傾向は、ベトナム戦争の泥沼から敗北、そしてドルショック・オイルショックと続く世界経済のパラダイムシフトによる、世界経済におけるアメリカのポジションの相対的な低下ともあいまって、アメリカだけが世界のマス製造大国であることを許さなくなった。それと同時に、世界的なレベルで、マスマーケティングの構造変化が起こったことも見逃してはならない。

ヨーロッパや日本においては、その長い歴史に支えられた文化があり、商品やサービスにおいても、質的なモノを評価し、そこに付加価値を見出す傾向が強い。それは社会が豊かになれば、マスマーケットでも現れる特徴となる。かくして、アメリカ以外の国においては、マスマーケットでも付加価値競争が行われることとなった。

コモディティー指向のアメリカ製品と、付加価値指向の他国の製品。「アメリカ以外」の地域においては、この勝負は明白だ。価格だけに反応する貧困層ならイザ知らず、多数を占める中産層以上では、付加価値の低いアメリカ製品に競争力はない。この結果、70年代以降アメリカのメーカーは転廃業を繰り返し、製造業自体の衰退をもたらした。

実はBig3の破綻も、脈々と続いた米国での製造業の崩壊の延長上でしかない。旧態依然とした、アメリカ的マーケティング。その最後の砦が、Big3だったのだ。それは、実は大衆消費社会にすら対応できていなかった。ましてや、すでに始まっている情報社会に対応できるわけがない。GMが再建できるかどうかは、まさに、このマーケティングのパラダイムシフトができるかどうかにかかっているのだ。


(09/06/19)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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