サステナビリティーの敵





最近でこそ、エコやサステナビリティーがビジネスでもキーワードとなっているが、少し前までは、環境行政など、どちらかというと官主導のイメージが強かった。しかし、よく考えてみると、これらのコンセプトは「公」ではあっても「官」ではない。それどころか、「官」こそ、エコロジー、サステナビリティー最大の敵なのだ。

たとえば、官僚が3人寄ればはじめるといわれる、公共事業。これなど、税金の無駄遣いとして確たる存在感を放っているが、それはとりもなおさず、やらなくてもいい、やる意味のない事業ということである。無駄なモノを作って、直接的に自然破壊を引き起こしたり、環境に悪影響を与えたりする。それだけでなく、その建設ために無駄なエネルギーを浪費する。

そもそも、必要がないのに、自分達の存在意義の証をつくるため、「ためにする」業務である。やらないほうが、余程エコだし、サステナブルだ。「官」の特質として、自分のアイデンティティーとして、犬のマーキングのように、無駄な公共事業をやりたがるのだ。おまけに、そもそもコスト意識がない分、改善の余地がない。暴走しだしたら、誰も止められない。

かつての公害問題も、実際に賠償や補償責任が問われるようになり、そのコストが顕在化してくると、事前に防止策をとるほうが余程コスト的に有利であることが明確になった。企業であれば、コストに対する合理性が働くので、そのほうが中長期的にはコスト的に有利となれば、たちどころに垂れ流しをやめ、公害対策を取るようになる。

コスト意識というのは、企業においては、極めて健全なモチベーションとなりうる。今世紀に入り、企業活動において、環境問題や社会的責任が重視されるようになったのは、それを軽視したときに発生するコストが莫大なものとなることが、経営者にも、ステークホールダーにも認識されるようになったからだ。

これが、倫理的な精神論だけなら、積極的に取り組む要因とはならない。それだけでなく、こういう精神論で動いてしまうと、ある種の「スノッブな良識派」というレッテルを貼られてしまい、まともなバランス感覚をもった人々からは、胡散臭く思われてしまいがちである。その意味でも、誰もが納得できる、定量的なコスト指標というのは重要なのだ。

そういう指標がない官僚組織では、歯止めが利かない。利権や公共事業のお手盛りと同じで、官の事業はやればやるほど、環境への付加は増大する。やらなくていいコトを、あえてやっているのだから、当たり前といえば当たり前。そして、それをセーブする方向に働く「ブレーキ」となるものは何もない。これでは、一旦動き出したら、どんどん暴走するしかない。

だから、官僚がエコとかサステナビリティーとか言い出すのは、笑止千万である。官僚にできる、最大の環境への貢献は、自らの定員を削減するとともに権限を狭め、行政改革を行うことに他ならない。エコを語るなら、まず官を縮小すること。官がはびこることは、国民からすれば、無駄な税金を取られる上に、地球環境を悪化させるという、踏んだり蹴ったりの状況なのだ。

日本をエコロジカルでサステナブルな社会にするための第一歩、それはとりもなおさず、徹底した行政改革により小さい政府を実現し、税金を減らすとともに、無駄な官の事業を取りやめることが第一である。道路も、ダムも、ハコモノも、こんなに環境に悪いものはない。そして、官僚がはびこること自体が、社会の環境を悪化させている。サステナブルな社会、それは「官」のない社会に他ならない。


(09/06/26)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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