昭和の教訓





相変わらず、昭和レトロブームが続いている。手を変え品を変え、あの時代の「懐かしいモノ」が引っ張り出されてくる。その中心となっているのは、昭和30年代だ。しかし、ブームなワリには、その時代のリアルな生活についての実感が薄い。少子高齢化が進んでいることを考えれば、今生きている日本人のかなりの部分が、この時代を実際に体験し、知っているはずなのだが。

まあ、人間というもの、一旦そこから抜け出てしまえば、イヤなコトやツラいコトは、忘れたがるものである。そういう意味では、昭和30年代の記憶の中から、あたかも苦労した部分をロンダリングしたような「レトロブーム」がもてはやされるのもわからないではない。しかし、あの時代は、ノスタルジーに浸るほど、いいコトばかりあったワケではない。そこを避けて通ってしまうところに、今の日本人の抱える問題が潜んでいる。

昭和30年代の日本社会が抱えていた問題、それは抜き差しがたい「格差」が存在していたことだ。貧富の差も大きいし、家格の差も大きかった。そういう個人レベルの格差以上に深刻だったのは、地域による格差である。都市と農村、農村の中でも米どころと山間僻地。今、中国では経済発展とともに地域の経済格差が問題となっているが、昭和30年代の日本の地域格差は、それ以上に激しく深刻なものだった。

まるで先進国と開発途上国のような格差が、日本の中でも、都市部と農村部の間にあった。だからこそ、人々は都会に憧れ、出稼ぎや集団就職というカタチで、都市部になんとか職を得、這い上がるチャンスを得ようとした。バブル期以降、不景気となった今でも、日本での就労を目指す外国人の姿が見られるが、それと同じである。不法入国し、不法就労する外国人のように、農村の人々は都会を目指した。

この問題が、解決というか少なくとも表面的には隠蔽されたのは、田中角栄首相による列島改造ブーム以降である。バラ撒き好き、利権好きな官僚の習性を見抜き、列島改造という、地方での巨大な公共事業の機会を作り出すことで、そこに新たな利権を築こうと、官僚たちが争って国税を投入する。かくして、高度成長による税収増を、地方の社会インフラや生活基盤の整備に廻す巨大な構造が出来上がった。

少なくとも、ドルショック・オイルショックが始まる70年代初頭までについてのみ考えるなら、このやり方も、ある意味、成果があったといえないこともない。しかし、副作用のほうが大きかった。バラ撒き行政は、撒くほうにとっても、撒かれるほうにとっても、麻薬や覚せい剤と同じである。一旦味をしめてしまったヒトが、それをやめることは極めて難しい。まさに「人間やめますか」だ。そして、副作用が講じて廃人となってしまったのが、80年代以降の霞ヶ関の官僚たちだ。

この結果、80年代以降、かつて激しい国内経済格差があった「農村部」、すなわち「地方」は、中央からの補助金漬けになってしまった。その地域が元来もっている経済力、生産力を大きく超え、中央からの「援助」がなくては成り立たないレベルにまで、経済基盤が肥大してしまったのだ。オーガニックグロースというか、自律的な発展を越えて経済が拡大してしまうと、何らかの理由でその「金の巡り」が途絶えただけで、経済システムは破綻してしまう。

自分の収入レベルをわきまえない、過剰な借入を行いすぎたことが、サブプライムローン破綻の、ひいては今世界を覆っている経済危機の発生原因だった。自らの収入レベルをわきまえない背伸びした支出には、破綻しか待っていない。それが廻っているように見えるほうが、運がいいだけなのだ。そして、80年代、90年代に見られた、都市部と地方の見せ掛けの平等も、これと同様、中央からのバラ撒きに頼った、過剰な背伸びだったのだ。

ある種、税金とは、国のブランドで行うマネーロンダリングである。国庫に収められることで、金は「天下の回りモノ」となり、全く無責任に使えるようになる。ある意味、それを前提にした「生活設計」をするというのは、足りないものは他人から盗んでくるのと同じ、まさにドロボウの発想だ。それは、何も生み出さない、国富の無駄食いでしかない。かくして地方には、無駄な公共事業の「遺跡」が死屍類類である。

そう、地方が中央の都市部と同じレベルの生活を目指すほうが間違っているのだ。自分達の生み出せる富をベースとして、つつましく生きることを考えなくてはいけない。それこそが、エコロジカル、サステイナブルな生きかたであり、環境との共生も可能になる。高望みをせずに、50年前の地域の生活を思い出せ。これこそが、日本があるべき姿を取り戻すための、最大の処方箋なのだ。


(09/07/03)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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