危険な「いい子」





この十年ぐらい、若者の凶悪犯罪が起きると、決まって犯人の性格を語る周囲の声として、あんなマジメな子が、あんなおとなしい子が(凶悪犯罪を行うなんて信じられない)、というコメントが発せられる。報道記者的には、そのマジメさ、おとなしさと、凶悪さの落差をセンセーショナルに見せようということなのだろう。しかし、そんなに違和感があるものなのだろうか。

おとなしい子、マジメな子、行儀のいい子、キチンと勉強する子といった、「いい子」は、昔からいた。しかし、彼ら・彼女らを高く評価するのは、あくまでも親や教師といった「大人の価値観」である。その一方で、こういうヤツらの、子供たちの間での「仲間内の評価」は、決して高くない。いい子なんて、ロクなモンじゃない、と思うのが普通である。

昔から、こういういい子は決して好かれなかった。中学、高校とか、真っ当な感性があれば、ちょっとワルになるのが普通であった。そのほうが、余程スタイリッシュだし、友達も恋人もできやすかった。いい子とは、偽善者である。その分、「みんな」から浮いている。しかし、いてもじゃまにはならないし、面倒な当番とか押し付けるのにはいいから、「置いといてやった」だけなのだ。

そういう便利さがなければ、イジメの対象になるのが関の山だ。勉強ばっかりやってウザいヤツは、とてもイジメやすい。マジメな性格ほど、つつくとヤケになって、正論で反発したりするので、基本的にイジりやすい。クラスの中でも浮いているから、村八分の人身御供にしやすい。だいたい、こういうヤツには、友達はいない。身近にこられるとウザいからだ。

さて、かつてはこういう「マジメないい子」も、偏差値さえ良ければ、「秀才」として評価されていた。だが、勉強はできても、空気が読めない事実は隠せない。空気が読めて、それなりに点数もいいというのなら、仲間づきあいもできるが、こういう「秀才」は鼻につくだけ。そんなヤツらは、世の中に出てもやっぱり変なのだ。そのなれの果ての最たるものが、「高級官僚」だろう。

こういう「いい子」上がりの「秀才」は、社会経験が少なく、社会常識がないので、社会に出ると組織に適合しすぎてしまう。世間一般からは、自分達がどう見えるかということに考えが及ばない。自分のやっていることが、社会的にはおかしいし、人々に迷惑を与えていることにもかかわらず、自分達の常識だけでモノを考え、それが社会的に通用すると思いあがってしまう。

社会性がないから、「いい子」になり「秀才」になり、最後には官僚になってしまうのだ。これをみても、「マジメないい子」という存在自体が、社会からハミ出した「歪んだ存在」であることがわかる。マジメということ自体、実は社会的関係性の構築がウマくできていないということである。それしかできないから、マジメにしているだけなのだ。

その分、マジメににすればするほど、自分の内部にはストレスがたまる。それを自分で押さえ込めなくなれば、バクハツしてキれてしまうのは当然だ。おとなしい子、マジメな子、行儀のいい子、キチンと勉強する子が殺人などの凶悪事件を起こすのは当たり前といえる。「マジメないい子」だからこそ、凶悪事件を起こすのだ。

その逆で、すぐ喧嘩して、ストレスを発散して溜め込まないヤツのほうが、よほどマトモだ。他人と喧嘩できること自体、相手との間に、ヒエラルヒー関係を作ろうとしていることであり、社会性の構築に成功している証である。関係性の構築自体から逃避しようとしている若者が多い中で、喧嘩が好きでよくするというのは、極めて見所もあるし、社会性もある。これからは、勉強よりケンカだ。やはり、ケンカに強いヤツが天下をとるべきなのだ。



(09/07/10)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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