ルール原理主義





ルールや規則があるならば、それを守ることはそれなりに重要なのは言うまでもない。しかし、ルールを絶対化し、金科玉条のごとく取り扱う「ルール原理主義」になってしまっては、本末転倒である。しかし、90年代以降の日本においては、かなり「ルール原理主義」的傾向が強まっていることも確かである。これは一体、どういうことなのだろうか。

軽微なミスや違反を犯したときでも、政治家やタレントといった有名人に対しては、世の中全体が、鬼の首でも取ったような反応をする。事実的にはそうであるかもしれないが、おのずとそれに対する社会的責任のレベルもあるはずだ。しかし、それを大きく越えた「代償」を払わなくては、「世間」が許さなくなっている。

これもけっきょく、「炎上」のように、有名人を叩きまくれるのが面白くて盛り上がっているのだ。そういう意味では、ある種の集団イジメと同じである。普段「下から目線」で見ている有名人を、この時ばかりは「上から目線」で見ることができる。「ルール原理主義」は、この「上から目線」を担保するからこそ意味がある。こういう大衆は、そもそも遵法精神が高いわけではない。

自分達は、少なくともルールを守っている。というより、ルールを守る以外のことをやるような勇気を持っていない。どちらが原因か結果はさておき、こと「ルール」を持ち出してくれば、自分達には非がないのだから、優位に立てる。したがって、ルールを破った人に対しては、「上から目線」で見ることができるという次第である。これは、村八分のロジックと同じである。

ルールに従っていれば、努力しなくても分け前に預かれる。しかし、そこに実力勝負を持ち込もうとする人が現れる。実力勝負も一つのルールである。しかも、そちらのほうが、悪平等よりも実は正当性が高い。だからこそ、こういう「蟻の一穴」は、なんとしても防がなくてはならない。かくして、現行ルールに対する「ルール原理主義」を持ち出して、実力勝負の導入を排除することになる。それはまた、「鉄の団結」を強めることにもなる。

ここでは、ルールは無責任の道具と化している。それを持ち出すことで、無責任が正当化される、甘えの免罪符なのだ。日本人の多数派は、そもそも出来もしないくせに、ネタミだけは人一倍強いヒトたちだ。そのネタミをバネとして、「出る杭を打つ」モノとして、「ルール原理主義」は存在する。右肩上がりの高度成長期には、その上昇志向に隠れていたものが、経済成長の終焉とともに顕在化したのだ。

さて、グローバルに考えれば、こういう「ルール原理主義」のほうが異端であり、ルールそのものも競争原理の中で改善されてゆくべきだ、というほうがグローバルスタンダードである。日本自身が発展途上国で、その労働コストの安さを生かして、いいモノを安く提供すれば済んでいた高度成長期が終わると、日本の企業や組織は、国際的な競争についてゆけないコトが多くなった。

その理由については、コミュニケーション力の問題や、「現地化」の問題、中長期的な戦略性の問題など、いろいろ指摘されている。しかし、それはあくまでも枝葉末節な結果でしかない。日本人自身が、甘え・無責任にどっぷり浸り、ルールにおもねっていれば、それだけで利権の分け前に預かれると思い込んでしまっている点こそが、最も根源的な問題なのだ。

ルールを傘に楽しようとする、歪んだ遵法精神。こんなモノが、世界で通用するわけがない。よく考えてみれば、日本の法制度体系の多くが、官僚機構の利権拡大と自己保全のために作られたもの。「悪貨は良貨を駆逐する」ではないが、国の法律や制度自身が、官僚の無責任の道具なのだ。こんな国では、みんなが「甘え・無責任」になるのも至極当然というもの。日本の国際競争力を高めるのも、まず、「甘え・無責任」の巣窟たる官僚機構をぶっ潰すのが第一なのだ。



(09/07/31)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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