アカウンタビリティー社会
前回述べたように、ルールを決めることは、それに従った規制を行うことと表裏一体である。となると、そこに許認可や届出といった監督権が必要になる。監督権それ自体は、基本的には中立的であるが、それゆえ運用により毒にも薬にもなる。その毒の最たるモノが、許認可権の利権化である。そういう意味では、ルールは既得権を生み出すのだ。
ルールで規定されれば、それは安定的に保護される。当人にとっておいしい権利なら、それがルールで規定されたことにより既得権となる。公的資格を持っていることが、人材募集の条件になるように、いわば「官」のお墨付きがもらえたようなものである。それだけでなく、ルール自体を作れる立場なら、自分達にとっていちばんおいしくなるように、許認可権を設定することもできる。
元来、三権分立は、ルールの設定者である「議会=政治」と、ルールの運用者である「行政=官僚」を、互いに独立の存在とすることで、相互牽制をかけ、恣意的なルール設定を行わせないためのものである。しかし日本においては、官僚の意のまま利権確保に動く「族議員」に代表される「政官の癒着」が横行し、官僚が自分達の都合のいいように立法し、ルールを決めてしまってきた。
官僚の問題というと、無駄な公共事業による税金の浪費や、天下りに代表されるお手盛り待遇がよく取り上げられるが、それ以前に、官僚が政治にくちばしを挟むことで、そもそも民主主義の原則である、立法と行政の相互独立を有名無実化してしまったことを忘れてはならない。これこそ、40年体制と呼ばれる官僚主導体制の本質であり、日本をダメにした最大の戦犯なのだ。
さらに、ルールを決めることは、同時に抜け穴を生み出すことになる。事実は小説より奇なりというように、およそ考えられる事態に対し、その全てを成文化しルール化するコトは不可能である。例外は、必ず生まれる。したがって、英米法のような不文法主義にもとづく判例法・慣習法ではなく、大陸法のような成文法主義にもとづく制定法をとる場合は、その運用が重要になる。
ということは、とりもなおさずルールを運用する人間が、それを悪用しようと思えば、いくらでもできることになる。成文化されていないものの中から、おいしい話を先に見つけてしまえば、ルールの趣旨からすると問題があっても、法律的には何も問題がないことになる。いわば、合法的な脱法行為である。法律で規定されていなければ、麻薬と同様の効果がある薬剤でも、麻薬取締法で規制できないことがその典型である。
まさに、この「合法的脱法行為」こそ、「天下り」のように、官僚が最も好むものである。法律に規定されていないから、違法ではない、というヤツだ。彼らは、その秀才の頭脳をフルに使って、この「法律の抜け穴」を見つけまくる。彼らの「仕事」のほとんどが、コレに費やされているといってもいいだろう。そして、過去の法律の中からも、ウマく法の網をかいくぐる屁理屈をこじつけ、利権化する。
このように、制度と権益は不離の関係にある。ルール化することが、既得権を生み出すのであれば、ルール化しないのがいちばんいい。そのためには、あらゆる行為に対して、行動主体のアカウンタビリティーを求めればいい。ルールで規定するのではなく、当事者が、なぜそれを行うのか、説明責任を果たせれば、何をやってもいい。すべて、自分の責任を明確化した上で、自己責任の名の元に行動する。こういうシステムなら、利権は生まれようがない。
きちんとステークホールダーに説明すれば、どんなに緻密なウソを塗り固めても、誰かはそのほころびに気がつく。「No」を喰らったら、その行為はもはや行えない。近世以降の日本人のルール観を見る限り、規則とは、基本的に「甘え・無責任」の道具である。そうであるなら、その対極である「アカウンタビリティー・ルール」に基づく社会を構築することが、20世紀までの産業社会的な価値観を脱した日本を築くための、最も効果的な方法といえよう。
(09/07/31)
(c)2009 FUJII Yoshihiko
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