マスの掟





ダニエル・カーネマンが2002年にノーベル経済学賞を獲得して以来、人間は経済活動において必ずしも合理的選択をするワケではないことを前提とした、「行動経済学」がブームとなった。確かに、人間が合理的行動を取ること前提とした学問体系は、現実の問題を解決する上では役に立たないことが多く、より現実的な、人々の感じている世の中の「理」に近い学問に、みんなが期待したコトもよくわかる。

そもそも、それまでの経済学が合理的人間を前提としていたのも、摩擦や空気の抵抗を「0」としてニュートン力学を考えるように、理論的体系化のための手段のためてであり、その結果が必ずしも現実的な解となることを保証するものではなかった。学問自体が、なぜそうなるのかという理論的な構造を示すことを目的としており、なんらかの答や結論を導き出すものためのものでない以上、そういう単純化をしなくては、定量化、数式化が容易にはできないのだから仕方がない。

より実践的なマーケティングにおいても、暗黙知たる現実の経験則が、非合理的な人間の感情の集大成であるのに対して、形式知化した理論としてのマーケティングでは、力学モデルのように、一定のインプットに対しては、同じアウトプットをもたらす系として人間を捉えざるを得ない。飢餓状態にある貧しい人間なら、そういう反応をするだろうが、ひとたび意志や嗜好が入った選択では、単純なモデル化は不可能である。逆に、理論化しなくても、「アタり」の答を導くコトは可能である。

これが読める天賦の才能を持った人間は、「ヒット作り」ができる。世の中がそういうものであることは、一生活者に戻ってみれば、誰でもわかるだろう。そういう視点の転換の出来ない人だけが、なんとか「理論的に解明」したがるだけである。80年代以降の社会の情報化の進展とともに、ここに乗り越えられない壁があることは、かなり社会的な共通認識となってきた。

豊富なデータを駆使すれば、「その新商品がどのくらい売れるか」は的確に推定できるようになった。しかし、「新商品そのものの持つべきテイスト」はヒトの感性からしか生まれない。これは仮説→検証と同じで因果関係が明確であり、データがいくら豊富にあろうと、そこから新商品の姿が生まれてくることはない。それなりに長い時間はかかったが、ある種のパラダイムシフトは、すでに成し遂げられたということができるだろう。

さて、21世紀も10年近くが経つと、こと日本においては、社会モデルが前提としてきた生活者像に、もう一つ大きな問題があることが段々と明らかになってきた。かつて右肩上がりの高度成長を続けていた頃は、上昇志向に基づく求心力により隠蔽されていたのだが、みんながそれを追えなくなり、あるがままの自分を受け入れるようになると、その本質が現れ、大きな影響を与えるようになってきた。

一言で言えば、21世紀の日本人は、「時間はあり余っているが、金はあまりない」多数と、「金はあり余っているが、時間が足りない」少数の二階層に分化しているのだ。マスである前者は、三浦展氏のヒットさせた「下流」概念に近い。だが、その本質は可処分所得や志の低さではなく、実は「時間があり余っている」ほうにあるのだ。だから、そこそこ金があっても、時間が余っているヒトの行動は、マジョリティーに近くなる。

では、「時間が余っているヒトたち」の行動の特徴はどこにあるのか。それは、手段が目的化してしまうことだ。元来、何らかの目的を達成させるための手段として発明され、利用されてきた商品やサービスは多い。本来の目的から言えば、手段に関わっている時間は、冗長なものである。しかし、ヒマなヒトたちは、そのヒマを潰すための道具として、これらの商品やサービスを活用する。そして、その利用時間の多さゆえに、そちらがメインユーザー化してゆく。

最近でいえば、「1000円高速」などそのいい例だろう。そもそもの発端は、高速料金を下げることで、旅行や観光に行くヒトが増え、名所旧跡など観光地に落ちる金が増えて景気にプラスになる、という発想だったとは思う。しかしフタをあけてみると、交通量は増えたものの、観光地への影響はそれほどではない。それは、「1000円高速」に踊った人の多くが「時間はあり余っているが、金はあまりない」ヒトたちで、「1000円で一日走り回ればヒマが潰れるコト」を目的としていたからだ。

インターネットも、爆発的に普及したのは、「タダで長時間ヒマが潰れる」点が、こういう「時間はあり余っているが、金はあまりない」ヒトたちの琴線に触れたからである。ひまつぶしが目的だからこそ、あまりインタラクティブな使いかたはしない。日本ではYahooが圧倒的で、Googleがそれほど伸びないのは、この視点から見ればすぐ理解できる。Yahooのサイトは、見ているだけでけっこうヒマが潰れるが、Googleは合目的的で、ヒマ潰しにはなりにくいからだ。

もっとも、Googleでもストリートビューはけっこうヒマが潰れる。その分、人気コンテンツになっているではないか。コンテンツといえば、そういう意味では、今のマスたる人々はコンテンツを見ることで情報を得たり感動を得たりしようとしているのではない。確実に、安くヒマを潰すことを求めている。そういう観点がなくては、テレビの強さも、なぜバラエティーが主流なのかも理解することはできない。

タダで確実に時間を潰せる。これができれば必ずや人は集まる。人が集まれば、金が動かなくても、社会は活性化する。20世紀が、大衆に金を浪費させる時代だったとするなら、21世紀は、大衆に時間を浪費させる時代なのだ。この発想の転換、指標の転換ができれば、日本は間違いなく活性化する。人々が幸せになる鍵は、賃金上昇より、社会保障より、充実したヒマ潰し。このところ、衆院選に向けて選挙戦が盛り上がっているのも、それが「充実したヒマ潰し」だからということを、政治家諸君は肝に銘じるべきだ。。



(09/08/14)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる