バラ撒きとムダ遣い





事実上の長い選挙戦も、いよいよ中盤に差し掛かり、やっと公示となる。とはいえ、およそ「芸風」も固まってきて、なんかサプライズがないと、面白味が減ってしまう。基本的にこの十数年、選挙は「面白いか、面白くないか」がカギになっているので、これでは投票率が下がるだけだ。失言でもスタンドプレイでもいいが、ここは一つトリックスターが登場して、場を盛り上げてくれることを期待したい。

さて、今回の選挙においては、両陣営ともバラ撒きサービスを競っているといわれている。確かに、バラ撒き政策は票に繋がるので、短期決戦では効果がある。そもそも政策論争では差が出せない以上、問題は多いモノの、ある意味仕方ない面もある。しかし、一口にバラ撒きとはいっても、その内容にはいろいろな形がある。それにより、相対的には評価できるものと、絶対に許容できないものとに分かれる。

そのカギとなるのは、そのバラ撒きが官公庁の利権や許認可権を拡大したり、天下り先を増やすなど、官僚が甘い汁をすえるチャンスを増やすものかどうか、そして、バラ撒きのメリットが、確実に国民にフィードバックするものになるかどうかである。官僚にとっておいしいものではなく、広く国民全てが結果を享受できるものであれば、形式としてはバラ撒きでも、必ずしも全面否定すべきものではない。

国民全員に、一定の給付をするのであれば、それは、ある種の累進性による所得再配分機能を持たせた上で、税金の割戻しをするのと同じである。ほんとうなら、ポイントカードの割引のように、払った税額に比例するカタチで割り戻すのが最も合理的ではあるが、これは減税と全く同じである。だが、セーフティーネット的な考えかたに立てば、あるレベルの累進性も認める必要があるだろう。こういう考えかたなら、納得性を持つ。

公共事業や補助金といった、旧来のバラ撒き行政では、一部の既得権者にしかメリットが得られず、社会全体の経済を活性化する経済効果も余り期待できない。それは、バブル崩壊以降の無駄な税金の投入が何をもたらしたかを振り返れば、すぐにわかることだ。それだけでなく、バラ撒いた金のかなりの部分が、公益法人等を経由して天下りした官僚のフトコロを肥やすことに費やされるとともに、官のバラ撒き権限を拡大するコトにも繋がる。

つまり、問題なのはバラ撒きそのものではなく、経済効果がないだけでなく、官の利権拡大しか生み出さない、「バラ撒き方」にあるのだ。もし、本当に無駄な公共事業をやめ、それに関わる公益法人等を解体し、そこに巣食う官僚やそのOBたちを放逐できるのなら、いままで税金を浪費してきた無駄な出費そのものを止めることができる。ここから生まれてくる財源は、「埋蔵金」のようなスタティックなものではない。

それは、今まで行われてきた無駄な公共事業などによる「負の効果」をなくす分と、捻出した財源を新たに使える分と、いわば「行ってこい」でダブルのメリットを生み出すものである。バックグラウンドで、このような「行政改革」を行うのであれば、名目は「教育費」であろうと「福祉」であろうと、公共事業支出をやめて、国民への直接補助に変えることは、それなりに評価することができる。

もちろん一番いいのは、小さい政府を実現し、税金そのものを減らすことである。しかし、それを一足飛びに実現することは、現実としては難しい。段階的に官僚機構のメタボを改善し、スリムで筋肉質な細マッチョ政府を実現するステップとしてならば、よりいらない公共事業、より無駄な公共事業から撤退し、その分を国民に還付するやり方も悪くはない。悪いのは「官」であって、バラ撒きそのものではない。果たして、それを実現できる政治家はいるのか。それが問題なのだ。


(09/08/21)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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