神風だのみ





日本の組織の特徴としては、「戦略がなく、戦術だけしかない」あるいは、「エクゼキューションは得意だが、マネジメントはからっきしダメ」などと語られることが多い。この時引き合いに出されるのは、「兵隊は優秀だが、士官将官は無能」とか、「大局観ないまま全面戦争に突入した」とか、「ノモンハン」「インパール」などの事例とか、第二次世界大戦での帝国陸海軍のていたらくが多い。

しかし、これは決して旧軍だけに見られる過去のモノではない。会社組織だろうと、官僚組織だろうと、日本の組織ではどこでも見られるものである。日本人の多く、特に「大衆」に属する人々が、「甘え・無責任」なメンタリティーである以上、戦略的に意思決定し行動することはできない。戦略には、かならず責任が付きまとうからだ。自らその結果に対する責任を背負うからこそ、戦略的判断となるのだ。

だから、そもそも戦略的判断が必要とない環境においてのみ、日本の組織はそれなりのパフォーマンスを示すことができる。高度成長期の日本企業の経営が典型だろう。当時の日本企業では、社長すなわちCOOこそいるものの、会長すなわちCEOがいなかったり、いても実体がなかったりする企業が多かった。この時代の経営は、時代の波に乗るだけなので、何も経営的判断がいらない。企業トップは、お猿の電車の運転士と同じだった。

したがって、トップが決定することは「経営」ではなく、今で言うと執行役員クラスが判断すべき、「業務」に関する事項であった。このような、よくいえば「現場主義」、悪く言えば「延髄から下だけで頭脳がない」体質は、決して過去のものではない。今でも、いくつかのグローバル企業を除けば、400万とも600万とも言える日本の企業の多く、そして官庁や地方公共団体、公益法人などの組織も、「風任せ体質」のままなのだ。

もっとも結果論として、創発的には、このような「戦術のみで戦略なし」という「経営」も、意味がなかったわけではない。とにかく、高度成長期の日本は、貧しい開発途上国だった。貧しいといことは、組織にとっては、経営リソースが不充分ということ。少ないリソースをわけあったのでは、全体最適を目指すことはとても無理だ。組織を縦割りにし、相互に競いあう中で、どこかで部分最適ができるだけでもめっけモノといえるだろう。

貧しい中で、経済全体は高度成長を遂げていた。この前提においては、なにも判断しないし、舵取りをしなくても、現場レベルの競い合いだけで、それなりの恩恵は得られたコトも確かだ。だが、これは高度成長という「追い風」あってのこと。無風、あるいは逆風の中では、とても許されることではない。しかし、オールがなく、帆しかない船では、風がないだらお手上げなのと同様、こういう体質の組織は、無風、逆風の中では立つ瀬がない。

こういうときには、往々にして「神風期待」になる。「神風」というと、何かオカルティックなモノを感じるが、そんなことはない。もともと波の向くまま、風の向くままにしか動けないのが、日本の組織である。自分で動くことも、風を起こすこともできない以上、順風が吹いてくれるのは「神の思し召し」でしかない。甘え・無責任だからこそ、自分では動けない。だから「神風」が吹いたときしか、動けないというだけなのだ。

けっきょくは、政治家も官僚も、同じ意味でなにも戦略的に行動せず、戦術的な部分最適に特化することしかできなかった。確かに、許認可利権体質を作り、公共事業で血税を無駄遣いし、お手盛りの天下り体質を作った、官僚と族議員の罪は大きい。しかし、それは日本のあらゆる組織に大同小異な、「甘え・無責任」体質の一つでしかない。いまや、 それが全て許されない状況になった。「ハダカの王様」になってしまったのは、彼らだけではないのだ。


(09/09/11)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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