自己責任とコンプライアンス





世の中のルールには、人治主義と法治主義とがある。これは、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているというものではなく、適応される人間や、取り扱う対象、TPO等により、マッチングが変わってしかるべきものである。当然、コンプライアンスについても、原理主義的に規則の条文を適応するという、杓子定規なやり方だけしかないワケではない。もっと大きな視点から、全体最適を目指して考えるべき問題である。

そういう意味では、「自己責任」というのは、究極のコンプライアンスである。他人に迷惑をかけない範囲においては、その結果に対して全て責任を負うならば、何をしてもかまわない。それは、極めて自由なイメージもあるが、実は極めて大きなリスクを自ら率先して背負うことを意味している。その行動から引き起こされる全ての結果に対して、一切免責なしで、あらゆる責任を取るコトを前提としているからだ。

無限責任といえば、有名な、ロイズの保険引き受けのようなものである。無限責任を負う代わりに、あらゆる制約から解放される。自由とは、何よりも重い責任と引き換えにしか手に入らない。すなわち、人治主義においては、全責任を背負う代わりに、自分が法律となるのだ。一方、法治主義においては、個人はあくまでも有限責任である。法律を遵守する限り、法律に定められた以上の責任を負う必要はない。

法律とは、無責任な人間に、有限の責任を明示するとともに、それ以上の免責を保証するもの。だからこそ、官僚たちがこれを悪用し、自分達の利権を拡大し私利私欲に走っても、「法律に規定されていない」コトを理由に責任逃れを行なえるのだ。法治主義で行く限り、このような「脱法確信犯」を防ぐことはできない。それは、法治主義の前提として、個人の無責任化がビルトインされているからだ。

これを防ぐには、全ての結果責任を背負う必要がある、自己責任体制にを築く必要がある。この究極の人治こそ、いい意味のワンマンであり、真の意味のリーダーシップである。決められた範囲の決定しかしないのでは、リーダーたり得ない。想定外の緊急時でも、キチンと対応し、ソフトランディングさせるためには、予定調和ではダメなのだ。自分の責任において、全体最適のための強権発動ができなくては、リーダーとはいえない。

このためには、法治主義は無意味。リーダーは、人治主義であり、無限責任でなくてはならない。その一方で、法治主義はスタッフにのみ適応されるものだ。それも、真のリーダーシップをとるリーダーが全体を統率することを前提としての話である。有責任者たり得る素養を持つ人材は少ない。また、組織においては、全ての構成員がリーダーシップをとる必要もない。それを前提に、リーダーと配下のスタッフとでは、行動倫理が違ってかまわない。

法治主義というのは、ある種マニュアル化・コンピュータ化と同じである。定型化できる部分は、ルールを決めればいかようにも対応できる。そして、システマティックに対応したほうが効率がいい。しかし、そうでない事態があるからこそ、人間系は必ず残しておかなくてはならない。それを担当するのが、リーダーの役割だ。まさに、危機対応、リスク対応のためにこそ、リーダーの判断が必要なのだ。

階級社会においては、慣習法が相性がいい理由もここにある。リーダーシップの積み重ねが、ルールとなり、法律となる。法律というのは、慣習法を作る側ではなく、それがないと秩序が保てない無責任階級のためにあることになる。その意味では、有責任階級はルールを創りだす側ではあっても、法律により縛られるものではない。自己責任のほうが、法律よりずっと重いものだからだ。

日本は、無責任階級、スタッフばかりで、有責任階級、リーダーがほとんどいない。だから、コンプライアンスが遵法精神の問題にすり替わってしまう。だが、それでは真の意味でのコンプライアンス、想定外の事態への適切な対応は不可能である。想定内の事態なら、危機管理もコンピュータ化できてしまうのだ。世界的には、二つのコンプライアンスがあるコトを忘れてはならない。そして、日本に欠けているほうのコンプライアンスを担保するものは、リーダーの「自己責任」しかないのだ。


(09/10/02)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる