能動と受動





「自立・自己責任」対「甘え・無責任」の構図と、しばしば同列に語られるものとして、「能動的」対「受動的」という構図がある。確かに、多くの場合「自立・自己責任」なヒトは「能動的」であり、「甘え・無責任」なヒトは「受動的」という相関関係はあるものの、相互に完全にオーバーラップしているワケではない。基本的には、相互に独立な関係であり、因果関係があるワケではない。

「自立・自己責任」対「甘え・無責任」とういう対比の中では、社会的な価値観が入っており、望ましい「自立・自己責任」に対し、周りの人間に少なからず迷惑をかけることになる「甘え・無責任」は、悪い評価となってしまう。そういう意味では、能動と受動は、こういう価値観からは自由である。少なくとも、「受動的」であることは、必ずしも「悪」というワケではない。

能動的・受動的な態度をどう評価するかは、環境やTPOとの関連で決まってくるからだ。たとえば、熱帯などで果物がそこいら中に豊富になっている環境なら、能動的に食料を集める必要はない。何もしなくても、喰うには困らないからだ。こういう環境ならば、受動的な生活でも充分幸せになれる。しばしば、こういう地域では、アクセク働く人間を蔑視するような文化が見られるが、まさにそういう価値観を体現しているといえよう。

その一方で、寒冷地、荒涼地などでは、食料が不足している地域では、能動的にならなくては、生活そのものが成り立たない。人類史的に見れば、必ずしも住みやすい環境ではないヨーロッパで、有史以降、元来的にストイックな宗教であるキリスト教が広まったのも、そういう環境に規定された生活態度がもたらした結果といえるだろう。こういう地域では、受動的な生きかたが罪悪視されることになる。

こう考えていくと、能動的か受動的かという態度が、価値観的評価と結びつくのは、その環境やTPOにあった生きかたを自覚しない場合に限られることがわかる。逆に言えば、これさえ守っているならば、あるいは受動的な生きかたが社会的に許される状況ならば、受動的であることは決して悪ではない。言い換えれば、受動的な生活をしたいのなら、現状に満足しなくてはならないということになる。

現状に不満を持ったり、高望みをしたりしてはダメ。受動的な生活からは、変化は生まれないからだ。今という時代をバックに考えるなら、これは「成長」を求めるか、「安定」を求めるかということになる。受動的に生きたいのなら、現状を受け入れ、そこからグレードアップすることを求めず、あるがままで満足し、幸せと思うことが前提となる。これを守ることができるのなら、受動的な生きかたも、一つのスタイルとして評価できる。

これが、21世紀的な生きかたと、産業社会的な生きかたとの違いである。産業社会的な価値観は、その創成期に生きたヴィジョナリストである、カール・マルクスの哲学を見ればよくわかる。マルクスの思想には功罪両面があると思うが、産業社会における人間の生きかたを示した哲学として見るならば、そのエッセンスは明確である。社会が貧しいから、人々が富を奪い合って不幸になるのであり、社会が豊かになり、みんなが欲しいだけの分け前を得られるようになれば、社会が平等になり、平和になる。

少なくとも、19世紀初頭においては、そう思っても間違いはない。あくまでも、成長は豊かで平等な社会を実現するための「手段」である。しかし、成長が目的化してしまったところに、20世紀の不幸があった。確かに「貧すれば鈍する」で、足りないことは不幸の原因となる。しかし、逆は真ならず。成長すれば、貧乏からは脱せるし、「足りない不幸」からは抜け出ることができる。だが成長したからといって、幸せになれるワケではない。

成長すれば、みんなが金持ちになれるワケではない。成長すれば、誰でも幸せになれるワケではない。上を狙えばキリがない。欲を出せばキリがない。この欲望の無間地獄に落ち込んでしまえば、いくらリッチになっても、決して幸せになることはない。ここに気付くために、一世紀がかかってしまった。おとぎ話の、いいお爺さんと、欲張り爺さんの話ではないが、豊かになってはじめて、幸せとは豊かになることではなく、自分の気持ちの持ちようであることに気付くのだ。

近代社会は、その意味では、偉大なる社会実験であった。マルクスの生きていた19世紀。産業社会は生まれていたが、まだその富が広く行き渡るほどには、成長していなかった。成長が続けば、いつかは受身のままでも、豊かで幸せな暮らしができるようになる。これこそ、産業社会の夢である。その時点においては、成長の先にある世界など、とてもリアルに想像することはできなかった。夢物語になるのも仕方がない。成長理想主義になるのも仕方ない。

そして、20世紀が終わるとともに、そのメッキはハゲてしまった。だが、この「社会実験」の結果がわかった今だからこそ、受身であるがゆえに幸せになれることもある。現状をポジティブにとらえ、現状に満足し、現状の幸せを大事にすればいい。これなら、受身のままで、何一つ変化しなくとも、心は幸せになれる。日本人に一番必要なのは、こういう心がけである。世界的にみれば日本は充分豊かだし、今でも充分幸せなのだ。

日本の歴史をひも解けば、日本の庶民の暮らしの知恵とは、まさに、この「現状のいい所を見つけ、現状に満足して幸せになる」ところにあることがわかる。西洋の成長主義に惑わされていた「悪夢」から目覚め、日本の伝統に則った「足るを知る」生活をはじめるべきだ。幸いなことに原点回帰というか、まさに最近の若者の大多数は、「まったり指向」といわれるように、こういう傾向が強い。いいことではないか。日本人もまだ捨てたものではない。


(09/10/16)

(c)2009 FUJII Yoshihiko


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